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10月 白い蝶

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 それでも恭子と離れたら面倒臭いので、杏は疑惑にかられながらも恭子の後を追って階段を降り始めた。辺りは人一人いない。階段を降り切ると廊下に出た。ここの照明は上程明るくない。心なしか蛍光灯の光が弱く揺らいでいる気がする。妙にテカテカしているリノリウムの床を歩く恭子のパンプスと杏のローファーの音が辺にこだましている。杏は彼方此方を見回しながら恭子の後に続いて何度目かの疑問を投げた。
「ねぇ、本当にここなの?」
 恭子は何も答えなかった。答えられなかったという方が正確かもしれない。恭子自身ここに来るようにと言われはしたものの自信はなかった。出来れば、杏が指摘するように自分の聞き間違えであって欲しかった。そう願ってもいた。
 ボイラー室のようなモーター音のする扉を通り抜けて、2人は一番奥の扉の前に立った。その扉は覗き窓もないしプレートのような物も何もかかっていない真っ白なペンキで塗られただけの扉。恭子は全身を引き攣らせてその前に立った。
「ねぇ、お母さん。何ここ? お父さんのとこに行くんじゃないの?」奇妙な展開に堪らず又しても杏が口を切った。
「・・・ここに お父さんがいるのよ」恭子は躊躇いながらも静かにそう言って、扉のノブを回した。
「え?」
 扉の中は薄暗く殺風景な長方形の部屋だった。蛍光灯が二本真っ直ぐに長方形の天井に静かに点いていた。その蛍光灯の真下に細長いベッドのような台があって、その上に何かが白い布をすっぽり被って乗っかっていた。手前の方に2つ高い山があって、そこから奥に向かってなだらか傾斜を描き、又徐々に高くなって一回凹み最後に1つの凸凹と丸みのある山になっていた。最後の山には別に小さめの白い正方形の布が被せられていた。脇には小さな台の上に造花らしい白い花が飾られて、黒く丸い香炉には線香が立てられて上に向かって真っ直ぐに白い煙が昇っていた。
「すみません、近藤さん。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。何から何まで本当に、ありがとうございます。」
 恭子が隅に座っていた年取った男に挨拶をした。杏はその男の顔に覚えがあった。確か、ずっと前にお父さんが珍しく飲み過ぎて潰れてしまった時に家まで担いできてくれた人だ。
「奥さん。この度は本当に急な事で、お気の毒です。僕らもあっと言う間の事だったので助ける事も出来なかった。誠に申し訳ない限りです」近藤と呼ばれたその初老の男はそう言って深々と頭を垂れた。
「とんでもないです。近藤さん、どうか顔を上げて下さい。主人はきっとこういう運命だったんです。仕方なかったんです・・・きっと・・・」そこまで言うと恭子は涙で言葉が詰まってしまった。
「ちょっと、お母さん!どういう事?! ここ何処よ!ねぇ、お父さんは?」
 まるでテレビの中のドラマのような台詞と仕草をしている母と男の行動に意味が分からないまま堪らず杏がいきなり叫んだ。それに答えたのは俯いている恭子ではなく、近藤と呼ばれる男だった。近藤はごくゆっくりと杏に目を移した。
「杏ちゃんか。久しぶり。大きくなったね。おじさん覚えてるかい? お父さんはね・・・ここにいるよ」
 近藤にそっと手で示したその何かに近付いて行った杏は、小さめの白い布を思いっきり取り払った。そこには、紛う事無き自分の蒼白になった父親の顔があった。
「何、これ・・・」
「会社を出た途端に雷に直撃されたのよ。お父さん、元々そんなに心臓が強い方でもなかったから心停止してしまって、即死よ」恭子がそれ以上見ていられないと両手で顔を覆った。
「嘘・・・」
 いつもこまめに拭いて大切にかけていた眼鏡がなかったが、薄くなりかけた髪も、少ししゃくれた薄い唇の顎も男にしては小さい黒子のある耳もそのままだった。ただ、石膏像みたいな顔になって、右頬にミミズが這ったような細かい火傷痕が幾つもついていた。

「行ってらっしゃーい」
 いつもならまだ寝坊している時間に珍しく早く目が覚めた杏は、更に珍しく出勤する父を玄関で見送った。
「ありゃ。寝坊助が早起して見送ってくれるなんて珍しいな。どうしたの?」
 玄関で靴を履きながら眼鏡の奥の細い目を更に細くして父は優しく笑いながら驚いて訊いてきた。
「別にー目が覚めただけだし。いいじゃんたまには」
「嬉しいよ。ありがとう。じゃ 行ってきます」そう言って、いつも通りにこやかに出掛けて行った父。扉が閉まり踵を返してリビングに戻ろうとした時に、靴箱の上にいつも父が忘れずに持って行く愛用の折畳み傘を見つけた。
「ねぇお母さーん。お父さん、傘忘れてったよー」キッチンで洗い物をしている恭子に声をかけた。
「あら。珍しいわね。あんたがこんな時間に起きてるのも。お父さんがその傘忘れていくのも。ま、大丈夫よ。今日は一日晴れだって天気予報で言ってたから」
「ふーん・・・ならいっかぁ」
「別に今から走って渡しに行けば、まだ間に合うわよ」
「いーかーなーいー。朝からそんな無駄に体力消費したくないー」
「あら。無駄じゃないじゃない。運動にもなるしお父さんも助かる」
「だって、雨振らないんでしょーなら無駄じゃん」
「はいはい。好きにしなさい。もし雨が降ったらそこらに売ってる傘買うから大丈夫でしょ」
 そう言って恭子は折り畳み傘をテーブルの上に置いた。今朝の事なのに恐ろしく遠い事みたいだ。恭子が堪らず崩れた。
「嘘でしょう?」


 葬式はこじんまりと執り行われた。父の親戚は父の兄だけだし、母の親戚も祖父母だけで少なかった。父の会社の上司や同僚がたくさん出席した。杏の見知っていた人は何人かしかいなかった。この間いた近藤さんは、送ってくれた時は父と同僚だったのに昇進して課長になったらしかった。出席者は少ない割にはやけに長い葬式だった。
 杏は恭子と座って来る人来る人に挨拶をするのが退屈になってきた。慣れない正座の足も痺れて痛くなってきた。どうしようかと思っていた時に不意に参列者の頭の向こうに裕太の顔を見つけた。裕太は真顔のまま軽く手を振ると裏を指した。
「お母さん。あたしトイレ行って来るー」
 挨拶している恭子の耳元でそう囁いて杏は立ち上がり、裏口から外に出た。癖っ毛が特徴の裕太は裏の公園のブランコに座って揺られていた。裕太は同じ高校のボーイフレンド。まだ付き合ってはいなかった。杏と同じで一応制服を着ている。
「大変だったな」
 いつもより若干生真面目に声をかけられた杏は隣のブランコに腰掛けた。
「んーん。あたしは平気。でも、お母さんがねー」
「杏だって大変だろ。杏の親父さん、なんつーか控えめだけど優しかったからな。俺、よくお菓子もらった」
「うちのお父さんに? そうなの。あたしは最近はそんなに話したりしてなかったんだよね」
「おやおや。親父さんと話もしなかったのか」
「うん。だって友達や裕太と話している方が楽しいしー」杏は空を見上げてブランコを揺らした。
 その公園には桃の木がたくさん植えてがあった。蕾がピンクがかっていて明日にでも咲き始めそうだ。
「杏の親父さん、よく河原を散歩してんの見かけたぜ。俺、その時にお菓子もらったりしたんだ」
「へぇ」
「杏は一緒に行った事ないのか?」
作品名:10月 白い蝶 作家名:ぬゑ