小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

10月 白い蝶

INDEX|1ページ/6ページ|

次のページ
 
あるサラリーマンの傘に雷が直撃した。
 彼は得意先に出回りに行く所だった。会社のビルから外に出てコンビニの安いビニール傘を空に向かって開いた丁度その時、傘の先の金属めがけて一直線に雷が落ちてきたのだ。ビルには高さがある程それぞれに避雷針が立っているので、ビルに囲まれたオフィス街ではあまり例のない、極めて稀な事例だった。宝くじに当たるより稀な事なのにも関わらず、特にくじ運も強くない彼が宝くじではなく落雷をあっと言う間の速さで引き当ててしまった。
 その日は昼から突然空が暗くなっていて、雲の中で雷が巨大な猫のようにずっと咽を鳴らしているような怪しい様子だった。何だか嫌な天気だった。けれど今日のうちに片づけないといけない仕事もあったので、荒れ始めないうちにと、彼は出来るだけ急いで取引先を回ってしまう腹で小走りに会社の玄関に向かった。書類と一緒に小脇に抱えた傘は何処にでも売っている、誰でも一回はお世話になった事のある安いビニール傘でいつも欠かさず常備している折りたたみ傘をうっかり玄関に置いてきてしまったので、慌てて駅のキオスクで買った間に合わせの物だった。
 彼は57歳。妻と娘の3人家族。ごく普通の一般的な家庭を持つ有り触れた男だった。小さいけれどに一戸建てに住んでいて、そこそこローン持ちで、白いトヨタのカローラを持っていた。娘はそこそこの都立高校に通っていた。年に一回家族で旅行に行っていたが、娘が嫌がっていかなくなり3年前に行った北海道のツアーを最後にもう行っていなかった。
 休みの日は大抵寝ているか散歩しているかゴルフに付き合わされていた。時々妻の買い物に運転手兼荷物運びで付き合わされたりもしていたが大旨妻とも仲良くやっていた。時たまよく行く喫茶店に会社帰りに寄ってぼんやりしたりしてもいた。
 両親は2年程前に他界していた。彼には兄が1人いたが最近の消息はわからない。確か最後に話した時は離婚したと言っていた。彼は仕事もそこそこ出来たが、頼りにされるまでは器が大きくなかった。どちらかと言うと、小心者で自分から進んで意見を言ったりした事はなかった。ただ責任感だけは人一倍強く、任された仕事は必ず遣り遂げた。そんな彼を自分の為に上手く使う人間もたくさんいた。勝手に自分の仕事を押し付けていってしまったりするのだ。けれど彼は決して文句を言わなかった。人の悪口も言わなかった。ひたすら良い奴だったが、昇進はある程度の所で止まってしまっていた。そんな彼が死んだ。一瞬で。

                            *

 横井恭子は、消費税が上がるからと困った顔をしてご自慢のパーマがかったボブを振り乱し、近所の主婦と夢中で立ち話をしたり、野菜の値段が高いからとベランダで家庭菜園を始めたのに爪の隙間に土が入って挫折したり、遊んでばかりいる娘の無駄な塾通いに頭を悩ませつつ安くもない物を衝動買いして後悔したり、今晩のおかずは手の込んだ料理にしようと朝思ったのに夕方にはどう楽しようか考えているような主婦だった。恭子は自分の夫の突然の死を、在り来りな読める展開をするのにそれでも昼ドラマだから許されてしまうつまらないテレビを見るともなしに見ている時に鳴った電話で受け取った。
「はい。横井でございます。あら、今日は。夫がいつもお世話になっております。・・・え?」
 前置きの一切許されないあまりに唐突な訃報に、恭子は体の力が抜けて座り込んでしまった。
「・・・は、はい。はい。聞いています。すみません。病院に・・はい。そうですか。宜しくお願いします。すぐに娘と向かいますので。はい。すみません・・・ありがとうございます」
 機械的に受け答えは出来たものの、電話が切れたあとも、恭子はそのまま受話器を握りしめたまま足下のランダムなフローリング板の模様を呆然と見つめたまま動く事が出来なかった。嘘よ・・・きっと何かの間違えだわ。それでも、動かなくてはいけない。例え何か悪い冗談だとしても、指定された病院に娘を伴って真実を確かめに行かねばならない。何もかもはそれからだ。とは思っても到底車を運転出来る余裕はなく、タクシーを呼んで娘の通う高校まで向かう途中にも頭は混乱したままだった。
「何? どうしたの?」
 今年で17になる杏が、短め丈のスカートに鞄を抱えて黒のニーハイソックスに包まれた細い二本の足をのんびり前後させながら面倒臭そうに歩いてきた。いかにも授業中に呼び出されたのが不服なのが丸見えだ。
「お父さんが何だって?」
「今病院にいるの。タクシー待たせてあるの。これから向かうわよ」
 早口でそう言った恭子を杏はカラスの羽のような睫毛を重そうにしばたかせて怪訝そうに見つめた。
「怪我でもしたの?」
 夫が即死だった事は既に電話で聞いて知っていた。その場で心肺蘇生法を行い、病院に運ばれたが心臓が完全に停止してしまったまま何も成す術がなかったと。恭子自身でも信じられない事を杏に向かって口に出す勇気がまだなかった。
「・・・いいから。行くわよ」恭子は無理矢理杏の手を引っ張った。
「痛いってー! ねぇ、お父さんが何なの?」
 杏は不審がって訊いてくるばかりで、少しも動こうとせずに焦っている恭子を余計に苛立たせた。
「そんなに引っ張んないでよ!行くのはいいけど、今日学校終わったら友達と遊びに行く約束してるから先に帰っていい?」
 恭子はタクシーを止めながら杏を鋭い眼差しで睨んだ。見た事がない恭子の顔に、杏は一瞬たじろいだが負けずに言った。
「何よ。訳分かんない。だって、わざわざあたしまでいる事なくない?」
「何言ってんのよ。お父さんはねぇー・・・!」
 その先が出てこなかった。今起きている事が口にしたら現実になるような気がした。これは夢だと思いたかった。
「お父さんは、何?」
「いいから!早く乗って!」
 まるでなにかに怯えているようななにかを堪えているような表情の母の顔を見ながら杏は仕方なしにタクシーに詰め込まれるようにして乗り込んだ。病院に向かう道すがらも恭子は険しい顔をしていただけで、一言も口をきかなかった。
 杏はそんな母の顔を肩まで伸ばした長い茶色の髪の毛を弄りながら、横目でちらちら見遣って増々怪訝な顔をした。
「訳分かんなーい・・・」

 病院に到着すると、恭子は素早く受付で名前を言って病室の場所を教えてもらった。何が何だかわからない杏は、恭子を待つ間とりあえず待合室のソファーに座っていたが恭子は戻ってこず、遠くから苛々と杏を呼んだだけだった。
「行くわよ!」
 怒っているかのような恭子の後を仕方なく杏はノロノロと付いて行った。何故か恭子は地下に続く関係者以外立ち入り禁止の札がぶら下がる階段を下りて行く。流石の杏もおかしい事に気付いた。
「ちょっとー!ここ勝手に入っちゃいけないんじゃないの?!」入れずに札の前に立ち止まった杏が叫んだ。
「いいのよ。関係者だから・・」恭子は短くそう言うと階段を先へと急いで降りていった。
「何それー本当にいいのぉー?」
作品名:10月 白い蝶 作家名:ぬゑ