風
んか・・・」いい気なもんだ、そう思いながら封筒に入った名簿を受け取って俺は立ち上がった。「なんだ、もう行くのかよ」鶴岡はコーヒーを啜りながら俺を見上げる。「ああ、金はここに置いていくから」ポケットから千二百円を取り出してテーブルの上に置き、店を出ようと鈴のついたドアを押し開けた。鶴岡は手に付いたマーガリンに悪戦苦闘しながら俺に肩を押し上げて軽く挨拶する。「糞馬鹿野郎」口の中でそう呟くと、そのまま喫茶店を後にした。
信号の無い横断歩道をゆっくり歩きながら、ビルの谷間を吹き抜ける風の色が変わっていくのを何も考えずにぼんやりと見回していた。久しぶりに歩く道だった。一見何時ものような夕方だと言うのに、やけに人通りが少ないのは近づいて来る台風のせいだろうか、道路脇に植えられた公孫樹が南から吹く生暖かい風に揺れている。不意に見上げた雲もなにやら物々しげに、西へ向けて列を組んで駆け抜けているように見える。流しのタクシーは、家路を急ぐサラリーマンを見つけようと、舐めるように路側帯に沿って走っている。俺の脚は駅に向かう大通りに飽きて、心地よい登りの勾配をもった脇道へと逸れる。大学の無愛想な鉄柵が、低く垂れ込めた雲の隙間から照る夕陽で赤く染まっている。右足、左足。どうということのない繰り返しだと言うのに、どうしてこんなにももどかしい気分になるのだろうか。脇道の急な坂、柵の隙間から気まぐれに飛び出した猫が一匹、目の前を横切る。黒猫だったか、白猫だったか。いつもだったら、そんな事ぐらいは覚えていられるはずなのに、俺の目にはただの猫の輪郭だけが、物言いたげに何度と無く走り抜けていく様が映っている。俺は一体どこへ向かっているのか。坂を登りきり、目の前のホテルに入る無関係な客たちを見ながら右に折れ、後ろから迫ってきた軽トラックを避けて、そのまま道なりに坂を下る。法学部の校舎の前の吹き溜まり、塵の山の頂上に広げられた新聞の見出し。その太枠の大見出しには、近頃、巷を騒がせている女子高生バラバラ殺人事件の記事が踊っている。写真の少女の笑顔、どこかで見た事がある気がするが、成り上った俺の頭の不正確さに気づいて、思わず拾いかけた手を止める。このまま坂を下りていけば公園に出るだろう。そこで煙草でも吸おうか。あたりを軽く見回しながら、胸のポケットに放り込んだ煙草の箱を確かめてみる。潰れた紙のケースの中に、何本かの煙草が入っているのが右手の指に感じられた。女が一人、俺の後ろを歩いている。法学部の校舎にでも行くのだろうか。俺はそのまま坂を下り続ける。公孫樹の大木が二本、俺の視界を遮ってみsる。公園の入り口、俺が通っていた時と同じ様に煙草の吸殻と紙くずが風で踊りながら俺を迎える。無様な石の階段、石屋の気まぐれとしか見えない遣り水、公孫樹の木に群がる鳩の群れ。広場に並べられたベンチには、手帳に何か書きつけながら、時折、群がる鳩を眺めている中年のサラリーマンが居るだけだ。俺は彼から少し離れたベンチに席を占め、胸のポケットから煙草を取り出すと、不規則に吹き付ける南からの突風に気をつけながら、百円ライターで火をつけた。ようやく火がついたとき、サラリーマンは手帳を右手に持ったまま近くの電話ボックスの中へと消えていった。そのまま視線を持ち上げて、俺は空を見上げてみた。鳩の群れが矢印の形をして風に逆らうようにして公園の上を飛び回っているのがわかる。安心したように引き下げられた俺の視線にはゆっくりと石段を下りてくる女の像が写っていた。階段を下りきったところで、それまで足元を見つめていた女の視線が俺のほうに向けられた。どこかで見た事があるような、今にも泣きそうな目、わざとらしく公園の砂利道の中に眼差しを落としながら、俺の頭はそんなことを考えているようだった。女はまっすぐに俺の座っているベンチへと向かってくる。足りない、そう思ったのは気のせいだろうか。彼女の周りの空気がいかにも居心地が悪いとでも言うように、俺に向かって吹き付けてくる。俺はフィルターの近くまで火の移った煙草を投げ捨てた。女は俺の前まで来ると自然と立ち止まって、俺の顔を見つめた。「あなたは駅前の古本屋の・・・」風で変質された声が、俺の記憶を昨日の今頃の時間へと巡らされる。二倍速で流れる脳裏に広げられた画面の中で、白いコートのしたから喪をあらわすピンク色がときどき転げ落ちる。俺は黙って頷きながら、彼女の顔を覗き込んだ。細い眉の下に開かれた目が、なぜか、俺の視界の中で静かに拡大を開始していた。「いや、もっと前にあったような気がするね。確か・・・ここで・・・気味の隣に誰かいたような・・・」俺の言葉が風に食いちぎられた時、女の眉が震えているのが分かった。俺は言葉を切った。風に浚われた言葉の一つが、女の隣で立ち上がって、気の弱そうな一人の男の姿へと変形を遂げた。あの日も風の強い日だったと思う。特に理由があったわけではないが、久しぶりに俺は大学に来ていた。誰ともしゃべらず、たまに見かける顔見知りの視線を避けるようにして、ようやく公園のベンチに自分の居場所を見つけ出した時、静かな笑いを浮かべながら近づいて来る二人連れを見た。どこと無くぎこちなく、吹き付ける春の風から相手を庇うようにして、ゆっくりと石段を下りて、いかにも申し訳なさそうな二人の男の視線が出会った。連れのあるような大柄の男は、急に困ったような表情を浮かべると無意識に頭を掻いて見せた。「やあ、久しぶりだね」それが「奴」だった。俺は煙草を咥えたまま、「奴」の影に隠れるようにして俺を見つめている女と、吹き抜ける風のことを考えていた。しかし、それから後どうしたのか、何を話し何について笑ったのかという段になるとまるで思い出せない。石段を下りてくる二人の様子は裾の風に揺れる有様まで正確に思い出せると言うのに、そして何かを話し何かについて笑った事だけは覚えていると言うのに。俺はその記憶をどこで無くしてしまったのだろうか、黙り続ける俺を彼女はじっと見つめている。その目の奥に、俺はなにやら罪悪感のようなものがあるように思えた。俺の目を避けるようにして地面の一隅に視線を落とすと、新しい革靴で俺の踏み潰した吸殻を蹴飛ばした。
「手紙・・・読みましたか」ゆっくりと、凍えるような声が、さりげない顔つきをして耳の奥に突き刺さる。手に残る紙を引き裂くような感覚が、音速で繰り返される。
「義孝さんが・・・そう言ったんです」砂利粒の一つ一つを数え上げているように見えた彼女の視線が、俺の手に軽く触れたように見えるのはきっと気のせいだろう。その手は引き裂かれた紙の断末魔の叫びをその耳に留めていることを訴えるようにかすかに震えていた。
「あいつは・・・いえ、佐々木さんは・・・知っている、少なくとも俺よりは、って。何を知ってるのかは教えてくれなかったけど・・・いつもそんな事ばかり言ってた」そんなことは無い、そう言おうとした俺を目で制止して、彼女は話を続けた。
「あの日、義孝さんが電話をくれて・・・いつもは私からかけるのに・・・」
「その時、頼まれたの?」
信号の無い横断歩道をゆっくり歩きながら、ビルの谷間を吹き抜ける風の色が変わっていくのを何も考えずにぼんやりと見回していた。久しぶりに歩く道だった。一見何時ものような夕方だと言うのに、やけに人通りが少ないのは近づいて来る台風のせいだろうか、道路脇に植えられた公孫樹が南から吹く生暖かい風に揺れている。不意に見上げた雲もなにやら物々しげに、西へ向けて列を組んで駆け抜けているように見える。流しのタクシーは、家路を急ぐサラリーマンを見つけようと、舐めるように路側帯に沿って走っている。俺の脚は駅に向かう大通りに飽きて、心地よい登りの勾配をもった脇道へと逸れる。大学の無愛想な鉄柵が、低く垂れ込めた雲の隙間から照る夕陽で赤く染まっている。右足、左足。どうということのない繰り返しだと言うのに、どうしてこんなにももどかしい気分になるのだろうか。脇道の急な坂、柵の隙間から気まぐれに飛び出した猫が一匹、目の前を横切る。黒猫だったか、白猫だったか。いつもだったら、そんな事ぐらいは覚えていられるはずなのに、俺の目にはただの猫の輪郭だけが、物言いたげに何度と無く走り抜けていく様が映っている。俺は一体どこへ向かっているのか。坂を登りきり、目の前のホテルに入る無関係な客たちを見ながら右に折れ、後ろから迫ってきた軽トラックを避けて、そのまま道なりに坂を下る。法学部の校舎の前の吹き溜まり、塵の山の頂上に広げられた新聞の見出し。その太枠の大見出しには、近頃、巷を騒がせている女子高生バラバラ殺人事件の記事が踊っている。写真の少女の笑顔、どこかで見た事がある気がするが、成り上った俺の頭の不正確さに気づいて、思わず拾いかけた手を止める。このまま坂を下りていけば公園に出るだろう。そこで煙草でも吸おうか。あたりを軽く見回しながら、胸のポケットに放り込んだ煙草の箱を確かめてみる。潰れた紙のケースの中に、何本かの煙草が入っているのが右手の指に感じられた。女が一人、俺の後ろを歩いている。法学部の校舎にでも行くのだろうか。俺はそのまま坂を下り続ける。公孫樹の大木が二本、俺の視界を遮ってみsる。公園の入り口、俺が通っていた時と同じ様に煙草の吸殻と紙くずが風で踊りながら俺を迎える。無様な石の階段、石屋の気まぐれとしか見えない遣り水、公孫樹の木に群がる鳩の群れ。広場に並べられたベンチには、手帳に何か書きつけながら、時折、群がる鳩を眺めている中年のサラリーマンが居るだけだ。俺は彼から少し離れたベンチに席を占め、胸のポケットから煙草を取り出すと、不規則に吹き付ける南からの突風に気をつけながら、百円ライターで火をつけた。ようやく火がついたとき、サラリーマンは手帳を右手に持ったまま近くの電話ボックスの中へと消えていった。そのまま視線を持ち上げて、俺は空を見上げてみた。鳩の群れが矢印の形をして風に逆らうようにして公園の上を飛び回っているのがわかる。安心したように引き下げられた俺の視線にはゆっくりと石段を下りてくる女の像が写っていた。階段を下りきったところで、それまで足元を見つめていた女の視線が俺のほうに向けられた。どこかで見た事があるような、今にも泣きそうな目、わざとらしく公園の砂利道の中に眼差しを落としながら、俺の頭はそんなことを考えているようだった。女はまっすぐに俺の座っているベンチへと向かってくる。足りない、そう思ったのは気のせいだろうか。彼女の周りの空気がいかにも居心地が悪いとでも言うように、俺に向かって吹き付けてくる。俺はフィルターの近くまで火の移った煙草を投げ捨てた。女は俺の前まで来ると自然と立ち止まって、俺の顔を見つめた。「あなたは駅前の古本屋の・・・」風で変質された声が、俺の記憶を昨日の今頃の時間へと巡らされる。二倍速で流れる脳裏に広げられた画面の中で、白いコートのしたから喪をあらわすピンク色がときどき転げ落ちる。俺は黙って頷きながら、彼女の顔を覗き込んだ。細い眉の下に開かれた目が、なぜか、俺の視界の中で静かに拡大を開始していた。「いや、もっと前にあったような気がするね。確か・・・ここで・・・気味の隣に誰かいたような・・・」俺の言葉が風に食いちぎられた時、女の眉が震えているのが分かった。俺は言葉を切った。風に浚われた言葉の一つが、女の隣で立ち上がって、気の弱そうな一人の男の姿へと変形を遂げた。あの日も風の強い日だったと思う。特に理由があったわけではないが、久しぶりに俺は大学に来ていた。誰ともしゃべらず、たまに見かける顔見知りの視線を避けるようにして、ようやく公園のベンチに自分の居場所を見つけ出した時、静かな笑いを浮かべながら近づいて来る二人連れを見た。どこと無くぎこちなく、吹き付ける春の風から相手を庇うようにして、ゆっくりと石段を下りて、いかにも申し訳なさそうな二人の男の視線が出会った。連れのあるような大柄の男は、急に困ったような表情を浮かべると無意識に頭を掻いて見せた。「やあ、久しぶりだね」それが「奴」だった。俺は煙草を咥えたまま、「奴」の影に隠れるようにして俺を見つめている女と、吹き抜ける風のことを考えていた。しかし、それから後どうしたのか、何を話し何について笑ったのかという段になるとまるで思い出せない。石段を下りてくる二人の様子は裾の風に揺れる有様まで正確に思い出せると言うのに、そして何かを話し何かについて笑った事だけは覚えていると言うのに。俺はその記憶をどこで無くしてしまったのだろうか、黙り続ける俺を彼女はじっと見つめている。その目の奥に、俺はなにやら罪悪感のようなものがあるように思えた。俺の目を避けるようにして地面の一隅に視線を落とすと、新しい革靴で俺の踏み潰した吸殻を蹴飛ばした。
「手紙・・・読みましたか」ゆっくりと、凍えるような声が、さりげない顔つきをして耳の奥に突き刺さる。手に残る紙を引き裂くような感覚が、音速で繰り返される。
「義孝さんが・・・そう言ったんです」砂利粒の一つ一つを数え上げているように見えた彼女の視線が、俺の手に軽く触れたように見えるのはきっと気のせいだろう。その手は引き裂かれた紙の断末魔の叫びをその耳に留めていることを訴えるようにかすかに震えていた。
「あいつは・・・いえ、佐々木さんは・・・知っている、少なくとも俺よりは、って。何を知ってるのかは教えてくれなかったけど・・・いつもそんな事ばかり言ってた」そんなことは無い、そう言おうとした俺を目で制止して、彼女は話を続けた。
「あの日、義孝さんが電話をくれて・・・いつもは私からかけるのに・・・」
「その時、頼まれたの?」