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 何か夢を見ていたような気がする。今日は古本屋は休みだった。それに気がついて寝ようとしたが、壁に貼り付けられたメモで万年炬燵を引き払い、こうして大学の近くの喫茶店に来てしまった。寝る事と、働く事。これ以外のことをするのは二月ぶりだ。だからと言って別に新鮮な気分になんかなれない。むしろこうして俺として他人の目の海を泳ぐ事の後ろめたさをどのように克服するかを考えながら、息を潜めてどうにかこうにか転がってきたようなものだ。時間をもてあましながら二杯目のコーヒーの、最後の一口を飲み干した時、観葉植物の隙間からいかにも申し訳なさそうに背広姿の鶴岡が現れた。この男の浮ついた視線が、嘲笑の色をたたえているように見えるのは、俺のかんぐりすぎというものだろう。そのどこかで見た事があるような派手なスカイブルーのネクタイを見て、不意に目を背けたくなった。「やあ、ちょっと駅前で色々あってね」何か言いたげな薄い唇から、低く腹に通る声がテーブルの上から転がり落ちる。奴が時間を守る事などあてにしていなかったのと古本屋の店員の職業意識が、俺の口から漏れそうになる怒りの言葉を圧し殺してしまう。「ちょっとすみません。ブレンドとトーストお願いします」俺と眼を合わせるのを避けるためか、わざと慣れた調子で立ったままウェイターに向かって手を挙げてみせる。レジの所で雑談に興じていたウェイターは、降って湧いた客の突飛な注文に目を白黒させながら厨房に向かって飛び出していった。「ちぇ、なんだよ、今日は野郎しか居ねえじゃないか。しばらくぶりにウェートレスのネーちゃんのお足が拝めるかと思って多少楽しみに・・・やべえな、どうもどこかの人事課のオッサンみたいになっちまった」何時もの軽口の後、軽く厨房の方を見てから、俺の使い古したおしぼりでゆっくりと手を拭った。店内は確かに妙に静かに感じた。俺達の他は、眼鏡をかけた女の子が窓際で一杯のコーヒーで何度と無く窓の外を見やりながら、粘り続けているくらいのものだ。「しかし本当に誰も居ないな。金曜の昼だって言うのにこれだけ空いていると気味が悪くなるぜ」鶴岡は丹念に指の間の油をおしぼりに擦り付け終わると、席に放り投げてある大き目の書類ケースから手帳と名簿のような物を取り出し、軽くおしぼりで拭いたテーブルの上に拡げる。俺もまるでそうしなければならないかのように、それにあわせて鞄から手帳を取り出した。「別に話す事もないから本題に入るぞ。それじゃあ今度の同窓会の話だけど・・・」俺は鶴岡の持っているコピー用紙に目を落とす。妙に凝ったレタリングの文字で俺の出た高校の名前がプリントされている。そしてその下にはもう忘れかけた同級生の名前が連ねられている。上から三番目、鶴岡の名前の下に俺の名前がある。同じ大学に入った奴で括っているのだろうか。そう言えば鶴岡は法学部だった。それを思い出したのと、急に目の前が暗くなったと感じたのは殆ど同じ瞬間だった。わざと数回瞬きをして、息を整え、軽く頭を持ち上げるとそこにウェイターがいた。いかにもつまらなそうに、鶴岡の正面のコピー用紙を避けながらコーヒーとトーストとミルクを置いた。俺のほうに向けた視線が小さい頃に見た死にかけた蛙のように見えた。「おい、このコーヒー空じゃねえか。佐々木、何か注文しろよ」しきりと右手に持っているペンで手帳に印をつけながら、鶴岡は無表情のまま呟いてみせた。「それもそうだな、じゃあ、またアメリカン」勢いで三杯目のコーヒーを注文した。蛙の目をしたウェイターは聞いていたのかいないのかさえ洩らすことすら面倒に感じているようで、相変わらず無表情なままで俺の前に置かれたコーヒーカップを持ち上げた。白いコーヒーカップの底に茶色いコーヒーの滓が輪を描いているのが目に入った。コーヒーの死体、そんな馬鹿な言葉がこぼれてくる。俺は俺の中でまた「奴」についての妄想が膨らんでいくのを感じていた。「しかし莫迦な奴が居るもんだぜ、試験に失敗する度に人が死んでいたら予備校の商売上がったりじゃねえか」テレビのブラウン管の明かりが白い電話機を七色に染める。「奴」は死んだのか。実感は何一つ湧かず、耳の中を鶴岡の無意味なお喋りが通り過ぎて行く様を眺めている。どの鶴岡の言葉も、浮ついた足どりで俺の耳の中を走り抜けて行く。まるで汚い水溜りを早く飛び越えようとするときの足どりだ。そんな妄想の風景を凝視していた俺の耳が、その水溜りの中の奇妙な風景に目をつけて立ち止まった。薄汚い下宿の、砂でざらついた床の上、耳のような俺が足音をたてないようにして、その中央の奇妙な影に近づいて行くのが見える。近づいていくに従って風景は重苦しく実在の叫びを上げ始めた。こちらの方でもいつのまにか耳のような俺は、俺そのものになってしまっていた。軋む床は寂しげに湿気を帯びて、鈍い光を俺の顔に乱反射してくる。力は殆ど無いくせに、不思議なほどに目に付く霧のような光に多少閉口しながら、長すぎる玄関を通り過ぎようとしていた。その俺の視線の先、先程の奇妙な固まりが影であることに飽きて、俺の眼の中に転がり込んできた。それは、椅子の下に寝転んで、天井をみている「奴」の横顔だった。椅子の背もたれには包丁がぶら下がり、刃は俺の喉に向けたまま左右にゆっくりと揺れている。天井を向いた「奴」の顔は不思議なほど白く、そして、安らかに見えた。振り子は背もたれとの摩擦でゆっくりとその力を失っていていき、いつの間にか止まっていた。包丁の刃に一瞬、俺の顔が映った途端、「奴」は足の親指と人差し指に挟んだビニールの紐を放した。すると相変わらず静かに、それでいて確実に、包丁の刃がもう既に生気を失っている「奴」の気管に突き刺さるのが見えた。噴水のようにあふれ出る血、喉を走る痛みに、一瞬、「奴」の口元が歪む。喉に突き立った包丁が、ゆっくりと右に倒れ、「奴」の喉を引き裂いてゆく。吹き上がった血を浴びた包丁の柄が、ようやく床に当たってその円運動を中止した時、呆然とその有様を見守っている俺の目に、明らかに死につつある「奴」の視線が当たったような気がした。声は聞こえないが、確かに「奴」の口元は何かを語ろうとしているように見えた。しかし、動きもすぐに止まり、ただ不気味な死人の視線だけがそこに残っていた。俺はその視線を避けるべくドアを開けて飛び出した。冷たい空気が、一瞬、背中を転げ落ちたように感じた。「おい、聞こえてるのかよ。だから俺はお前を副幹事にするのは嫌だって言ったんだよ。だから、この名簿を人数分コピーして、それを全員に送るのがお前の仕事だぞ。分かったな」厚くマーガリンを塗られたトーストを頬張りながら、鶴岡はしきりと時計を気にしていた。内定企業の拘束でもかかっているのだろうか、鶴岡のことだ、口には出さないが相当苛立っていることだけはいつものこぎれいな格好をしているこの男のネクタイが歪んでいることと、スーツに飛び散ったパン屑を見ればわかる。「わかったよ。悪かったな、それだけのために呼び出して。なんか時計気にしてるけどこれからなにかあるのか」「実は会社から呼び出しかかっててさ、また訳のわからない講習とか受けさせられるんだろうけどよ。本当に、お前はいいよなあ、勝手気ままに行きてられて。その点俺な
作品名: 作家名:橋本 直