風
「いいえ、その時は、それが自殺のことだなんて気づかなかったんです・・・、ただ、しばらくは会えなくなるって・・・ちょっとこれからしなければならないことがあるって・・・、けど・・・、」こんな冷たく悲しげな言葉を俺はこれまで聞いた事があるだろうか。頬にぶち当たる風はこんなに生暖かいと言うのに。
「一体・・・なぜなんですか、彼が・・・、義孝さんが死んでしまったのは・・・」俺を見つめるその瞳から、感情の水が流れ出していた。
「何で、俺に聞くんですか?」俺はまた、煙草を取り出して、手で軽く覆ってライターに火をつける。彼女の視線は俺に注がれ続けている。俺はそのままその視線を無視して、胸一杯に煙を吸い込んだ。顔を見上げた時に彼女と視線が出会うのを感じた。敵意、悲しみが変形した先はそんなものであろう。
「そんなこと、一体、誰がわかるって言うんだ。きっと奴だってなにも知らなかったんじゃないかな。自殺の理由なんて誰も知るべきじゃないし、知ろうとするのは警察の仕事だよ。別に誰が死のうが関係ない話だからね、少なくとも古本屋の店長には。それより君は自分のことを考えた方がいいんじゃないかな?世間体ってものがあるだろうし・・・」
最後に滑り出したこの言葉の群れは、彼女ばかりではなく俺をも驚かせるに十分だった。別に俺は俺の残酷さに驚いた訳じゃない。残酷なのは生まれつきだ。しかし、なんだってその残酷さを世間体なんて言葉を使ってあらわさなきゃならないんだ?俺はそんなに卑怯な人間だったのか?自問自答、答えなんて出るわけも無い。彼女の表情が次第に驚きから怒りへと変貌している。彼女の目の中で俺はただの無責任な男から、世間そのものへと変換されていく。
『俺が世間だって!あの莫迦どもと同類だって!』
俺の中で寝ぼけた目をこすっていた俺が、顔をひきつらせて怒りをこらえているのがわかる。
「じゃあ、佐々木さんは彼が死んだのは当然だとでも言うのですか?私にはそんなことは理解できません。忘れろと言うんですか?」涙、それが悲しみによって流されているものでないことは俺にもわかった。一度軽く目を伏せた後、彼女はようやく言葉を引き当てて見せた。
「理解するかしないかなんて些細なことだよ。死ぬべき奴が死んだ。残されたものはそれを受け止めるしかしょうがないんだ」本当の言葉がこぼれた時だった。俺の目には彼女が走って行く姿が映っていた。俺は偶然の凪の間に続けざまに煙草に火をつける。「奴は死にたくて死んだんじゃない、死ぬべきだから死んだんだ。それ以外の答えが、一体どこにあるって言うんだ」言いたい言葉がようやく見つかって俺は安心したように空を見上げた。空は隙間無く雲が積み上げられているというのに、雨はまだ降りそうにはない。それならば仕方がない。俺は立ち上がって向かい風の中を南へ向けて歩き出した。俺はどこに居るのだろうか、昔から考えていたことに戻ってきてしまったらしい。煙草は今日でやめることにしようか。言い訳はそれからにしよう、それでも遅くはないだろう。