風
光線がゆっくりと力を失っていくのに、それでも気が済まないかのようにそれは死人の頬の色になっていた。俺の指の間から転げ落ちたボールペンが、カウンターの縁にぶつかって止まった頃には、それは純白の死装束になっていた。止まったように見えていたボールペンが気だるそうに落下運動を開始する。それに併せるかのように店内が歪み始めた。気づけば、俺は闇夜のようにしんと静まり返った小部屋の中央に腰掛けていた。足元には桐で出来た棺桶が置かれている。俺は傾いた丸椅子から立ち上がって、棺桶の側に立った。中には店に入ってきたあの女が、まるで何かを待っているかのように眠り続けている。俺の頭の中の俺はそのまま棺桶の側に腰を下ろして、別に悲しむわけでもなく、棺桶の中で白くなり続けている彼女の顔を覗き込んでいる。肩にかかった髪の先がダークグレーから薄い灰色へと変化していく。薄く塗られた口紅だけが、取り残されたように赤く顔の中央をなだらかに彩る。俺には、彼女が待つものが何時までたっても現れないだろうという奇妙な確信があった。なぜそんなことを思うのだろうか、俺は何も知りはしないのに、俺の煙草の火が燃え尽きて、プラスティックの溶ける時の鼻を突くにおいで我に返った。細い通路越し、店内を一回りした女が、多少遠慮がちに俺の目の前に現れた。「あのいいでしょうか」俺は燃え尽きた煙草の吸殻をカウンターの片隅に置かれた灰皿に放り込んで、無為な幻想を忘れ去ろうとする。顔面の神経を走る職業意識は、素早く俺を古本屋の店員へと変貌させた。視線は女の右手にある埃にまみれた商法概説2を捉える。すると俺の意識とは関係ないところで、記憶の倉庫からハードカバーの専門書の定価が呼び出される。「この本なんですけど」俺の声帯を中心とした全身の筋肉が、次に切り出される彼女の言葉にむけて準備の態勢に入るのが分かる。「ああ、その本ですか。ちょっと見せてください」もうすでに分かっている定価を調べるべく、俺はカウンターへ置かれようとしている本に手を伸ばす。俺の手の先が本に触れようとした瞬間、彼女の手が急に引っ込み俺の指が空を切った。別にこのようなことは珍しくないさ、突然、俺の中でそんな声が聞こえるのは先程の幻影のせいだろうか。「これ・・・」何か言いたげに凍りついた眼。しかし、俺はただの店員にすぎない。ただ彼女の決心がつくまで待ち続ける。時折、解けかけた瞳が右手に滑り落ちてゆく、まるで葬儀の席のような眼差しだ、そう思うと同時に、彼女の眼が影のように黒い色に染まり始めた。本来の嗅覚が香水の匂いで満たされ、穏やかで悲しげな噂話の列が目の前を過ぎる。一体、誰の葬式だろうか、顔の無い参列者は一体誰なのだろうか。俺の視線の中央には、相変わらず、彼女が商法概説2を右手に持ったまま、目の前を運ばれていく棺桶を見送っている。白い布に覆われた棺桶はゆっくりと参列者の列の間を通り抜けて、頑丈そうな焼き場の釜の中へ滑っていく。二重顎の坊主が低く重たい声で話し始める。周りで漏れる啜り泣きのせいか、坊主の話し始めた「迷い」という言葉しか聞き取れなかった。参列者はその話を聞き流しながら、燃え続ける釜の中を想像して俯き加減に知りもしない死者について語り合っているようだ。坊主はようやく気が済んだように、なにやら手に持った数珠を摺り合わせて奥へ引きさがって行った。参列者もそれに合わせるようにお互い肩を寄せ合うようにして奥の間へ行進を続ける。双子の大男が薄ら笑いを浮かべながら焼き場を後にして、俺と商法概説2を持った女だけがカウンター越しに残された。不健康なほどに白い女の手がゆっくりとカウンターに伸び、無言のまま箱に入った本を灰皿の隣に横たえた。自動的に俺の手がそれを持ち上げ、箱をゆっくりと外す。俺は手垢にまみれた黄色い表紙に新しいシミが付いているのを無視して裏表紙をめくり値段を・・・、
1992年9月2日生協にて購入
遠山義孝