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 大学を中退して、家を裸同然に追い出され、街の中を転がるようにして二年ほど生き延びていた。生きていれば妙な偶然にも出会うもので、あれほど無責任な男の筈だった俺が、いつの間にか古本屋の店長になっていた。まだ見習いの頃、どこから聞きつけたのか、店にはよく優越感を味わいに、昔の仲間がやってきた。しかし、それも奴等が四年になってからは急に途絶え、奴等のことも、奴等がいた学校のことさえ忘れかけていた。それどころか、近頃では生まれた時からこうして古本に埋もれていたみたいに、ぼんやりとカウンターに座っていることが俺の天職のように感じるようになってきたくらいだ。別に大学の連中のことなんて気にしてはいない、そう考える事自体がコンプレックスって奴なのかもしれない。決まって夕方と呼ぶには少し遅すぎる時間、なぜかいつもそんなことを考えていた。そして、そう思う度に頭を掻きながらテレビのスイッチをつけるような癖が、いつの間にか身体に染み付いてしまっていた。テレビのブラウン管にはコマーシャルが繰り返し流れている。俺の視線は店先に流れ下る。たいがい、そんな時に限って「奴」がやってきたものだ。不意に記憶の奥から見慣れた風景が湧き上がってくる。一月か、二月に一度、丁度「奴」の名前を忘れかけた頃に店に現れる。今思えば、「奴」がやってくる日は決まって、少し嫌味に感じるくらいに晴れた日だった気がする。店の前の自転車の垣根が無くなって、ようやく暇になったかなと思い、カウンターの隣にあるテレビを眺めながら売り上げ計算の続きをしようと、戸棚からノートを取り出した時、手に大き目のボストンバックを釣り下げて伏目がちに引き戸をゆっくりとあけようとしている「奴」の姿が目に飛び込んでくる。いつものように大柄な身体を申し訳なさそうに折り曲げながら、時折、店内を軽く見回して、何も買うべき物がないことを確認すると、俺の視線を避けるように陳列台の影を選んでカウンターに近づいてくる。カウンターの前で下がった銀縁の眼鏡をゆっくりと押し上げ、ついでに右腕の時計で時間を確かめ、四角い顔の中に貼り付けられた蜆のような小さな目を見開いて軽く息を整える。「また売りに来たよ」カウンターの手前で遠慮がちに呟くと、ボストンバッグからビニールの紐で大きさごとに縛った本の束を取り出す。大体中に入っている本の傾向は決まっていた。漫画本五、法学書三、文学書一、その他一。そしてこの店の品揃えも法学書の分を除けば大体そう言った割合だった。そう言えば、漫画本の束の隙間からピンク色の表紙がこぼれた時に「奴」の顔から情けなさそうな笑いが漏れた事だけがなぜか記憶に残っている。俺は「奴」から本の束を受け取ると、一応、手元の表とつき合わせて値踏みをし、それに若干色をつけた金額を手渡した。その数分の間、「奴」はしきりと店の外を眺めながら、一方では俺の手際の悪さに苛立っているかのように、何度か足でカウンターを蹴りながら黙っていた。誰かを待っているんじゃないだろうか、どれくらい色をつけるかを考えながら俺は片方でそう思っていた。実際、駅前のこの店を待ち合わせ場所にしているらしい人間を俺は三組ほど知っていた。セーラー服を着た少女が一人、しきりと腕時計を気にしながら少女漫画のコーナーを行ったり来たりしている。何度も棚から本を取り出して、くるくると手元で回してみてはいるが、棚に並べられた本が、その薄っぺらな鞄の中に入った事はない。レジを弄くりながら店の前を見ていた俺の視線の中に、スポーツタイプのオープンカーの急停車する姿が飛び込んでくる。少女の背表紙を眺めていた目が、店の前のオープンカーから降りようとする頭の悪そうな男の後頭部に注がれる。それも一瞬のことで、彼女は店の中を軽く見回してそのまま出口の引き戸を開けて飛び出していった。男の手が彼女の腰に伸び、男は乱暴に車内へ女子高生を詰め込んで車を来たときと同じ様に急発進させる。「すまなかったね」エンジン音にかすみそうな声で「奴」は申し訳なさそうに空のボストンバッグを小脇に挟むと、生活書の居並ぶ一番狭い通路を、背中を丸めながら出て行った。「奴」の白っぽいシャツにやけに赤く染まった夕陽が当たってピンク色に見えたのが今でもはっきり脳裏に焼きついている。あれが最後だった。確か今日みたいに客の少ない水曜日だったと思う。そう言えばあの少女もあの日以来、見ていない。別に男でもできたのか、それともあの男に捨てられたのか。こんな狭いところに一日中座っていると、元々、人のことなど気にしない俺でも、そんな他人のつまらないゴシップに妙な関心を持ち始めるようになる。惰性で付けられた金庫の上のテレビの中で、「悪代官」が袈裟懸けにされた。客の一人も居ない店の中に虚しく響くファンファーレ。俺はカウンターの下から灰皿を取り出して煙草を吸い始めた。煙草の煙が尻尾を引きずりながら出口の方に這って行くカウンターの上、ノートに六百八十円と書いて、ボールペンを指でくるりと回した。あと、三十分は客が来ないだろう。そう思って犬を抱えた子供達が走っているテレビに目を移した時、引き戸が開けられた音がするのが聞こえた。顔を上げるとまず淡いピンク色が飛び込んできた。次第にそれが広がっていき、そして一人の人間の背中を形作った。「奴」の背中も確かこんな色だったかも知れない。俺の瞼の裏側でピンク色のワンピースが裏返しになる。特に見慣れた顔でもないが、別に始めて来る客というわけでもない。いつも法学書ばかり買って帰る奇妙な客。今日も彼女は文庫本のコーナーを素通りして、店の片隅の文学全集の合間に僅かに置かれた法学書を、一冊、一冊、あらためている。その殆どは「奴」が持ってきたものだ。なぜだろう、「奴」の事を思い出すたびにそのピンク色の背中の色が少しづつ褪せていくような気がする。それは目の奥に染込むような濃いピンク色から、「奴」の背中に浮き上がったあの淡いピンク色になった。
作品名: 作家名:橋本 直