風
みんな「奴」のせいなんだ。そう思うと、途端に錆色の粘液が、頭の中の毛細血管に詰まったみたいな感じがして、どうにもならなくなった。眼の焦点はその機能を忘れて、上下左右に歪んだ像を、土色の網膜に叩き付ける。どうすればいいのか、何一つ考えがまとまらない。まるでそうするのが義務であるかのように、ぼんやりと座り続ける俺。壊れかけた俺の意識が、ちらつくテレビの画面に引っかかって止まった。画面では女のアナウンサーが、日本列島に近づいている戦後最大級の台風について、いつ止むとも知れない無駄話を続けている。不安と期待を漲らせた薄ら笑いが、十四インチのちんけな俺のテレビの画面を、長々と占領し続ける。その間抜け面の隣には吊るされた手拭みたいな四十がらみの予報官が、事務的な調子でその無能さをさらけ出してみせる。「・・・明日の夕方には八丈島の南海上三百キロを中心とした円内に進む恐れがありますので海などにお出かけの方は十分に注意をなさってください」目から耳から嫌味な感情の霧のようなものがかかってきたので、俺は視線をテレビから引き剥がした。だからといって、何処に目をやればいいのだろう?部屋の中はいつも通り閑散として在るだけだ。もう一ヶ月も音を出したことのない安物のステレオ、薄く埃を被った隙間だらけの本棚、あらぬ時間をさしたまま動かない時計。どれもこれも以前のままに突っ立っている。そのなんと不釣合いで無様なことだろうか!黄色く濁った午前の光の中でなければ、とても目の当てられたもんじゃない。その中でも、本棚の上に置かれたコップの中の、半分ほどのところまで水が入ったその中の、窓越しに突き刺さる朝日に輝いてみせる緑色の目玉。転げるようにして家から飛び出したときに持ち出した、マリモの置物。腐りもせず、枯れもせず、ぼんやりと、今にも倒れそうな本棚を支えているあのつまらない置物だけが、俺をこうして生かしているのかも知れない。急にそんなばかばかしい妄想が生まれてきたのは、俺の座っている足の不安定な万年炬燵の上に、一枚の封筒が置かれているからに違いない。そいつは薄茶色の身体の端を少し折り曲げて、どこにでもあるような封筒のフリをしている。精神が切り刻まれてぼろぼろになった俺でも、こいつの優等生ぶりなんかに心を乱されるつもりは毛頭ない。実のところそこに「奴」の名前が書かれていなければ、こんな封筒さっさとゴミ箱に放り込んでしまう筈だったのだから。本当はそうすべきだったんだ!俺の中に残った僅かな理性が消え入るように叫び声をあげた。別に「奴」自身が特別な人間だったと言うわけでもない。ただあえて「奴」の特別な点をあげるとすれば、「奴」は一週間前に死んでいたというだけの話だ。自殺だった。司法試験に落ちたショックだ、「奴」の友人で同じ様に司法試験を受けた連中はそう言って口述試験まで残った「奴」を嘲笑した。俺もその話を聞いた時、正直なところ同じ様に考えていたものだ。別にそれほど親しかったわけではない。学部も違い、たまに大学生活のつまらなさについて語り合う数少ない相手と言うのが、「奴」との関わりのすべてだ。孤独なはぐれもの、「奴」の口振りからそんな印象を受けたのを覚えている。ある意味では俺に似ていたのかも知れない、たぶんそのことが俺の頭に「奴」の名前を叩き込んだのだろう。そうでもなければ自殺するような馬鹿な男の名前を、どうして俺が覚えていなければならないと言うんだ?同情と侮蔑に満ちた愛情の表情が板に付き始めてから一週間が経ったが、そのあいだに「奴」が生き返ったという噂は、終ぞ耳にしたことはない。少しだけ不審に思って俺の意識が封筒の消印を探った。九月七日、杉並。無表情な消印は二日前に杉並で投函されたことだけを示していた。俺は封筒を持ち上げ目の前に翳してみた。窓からの淡い光が、一枚の便箋を封筒の中に浮き上がらせる。引き裂くべきか、読むべきか。悪戯にしても、またそうでないにしても、それは俺にとって難しい選択だ。死人からの手紙をどう扱えばいいかなんていう話を、俺は一度も聞いた事がない。それなのに、俺の仕事をこなすことしか考えない俺の手は、理性の小言など無視するかのように糊付けされた部分を千切り始めた。心の準備もする間もなく白い便箋が俺の目の前に引きずり出された。「佐々木。お前だけには俺の死んだ本当のりゆうを知ってほしい」横に引かれた罫線を無視して、ボールペンのインクが流れ下っていた。何で俺だけになんだろう。俺以外の誰でもなく、何で俺でなければならなかったのだろう。ただ人間が嫌いで、街の片隅で本ばかり読みながら生きている俺を苛めるのがそんなに面白いのか?テレビには天気図が映し出され、その前でうだつの上がらない中年の予報官が慣れない原稿を読み上げている。俺もその予報官もこのつまらない事件さえ無かったら。こんな事に悩まずに済んだのだろうに。そんな考えが頭を過ぎ去った時、部屋の隅に捨て置かれた腕時計のアラームが、出勤の時間に近づいた事を告げた。俺の身体は「奴」の手紙を開いた時と同じ調子で、万年炬燵から俺を引きずり出した。