遼州戦記 保安隊日乗 2
「東モスレム解放戦線の公然組織、東和回教布教団だ。東モスレムの連中にしたら確かにあの化け物が央都鎮座しているってことが安心して眠れない理由なんだろうが、持ち主の遼南軍とは関係の無い連中だから推測で叫んでいるだけなんじゃないかな。もし本当ならもっと早い段階で水漏れして俺のところにもいくつかの情報屋から知らせがくるもんだけどな」
そう言うと吉田はゆっくりと靴を履く。
「つまり今回アタシが手に入れた情報は無意味だったと」
「まあそう言うこと。とりあえず騒ぐことが無いからでっち上げたんだろ。だが、東モスレムの情報が嘘だからといって豊川工場に『カネミツ』が存在しないかどうかは俺もわかんねえよ」
吉田はゆっくりと立ち上がる。要はそれ以上聞くつもりは無かった。ネット上の情報をほぼその神経デバイスにリアルタイムで流している吉田すら嵯峨の特殊な情報網は把握できてはいない。そして吉田もそのことを追求することは無い。
いつものことだ。そう割り切った誠はさっさとサンダルを履く要の後に続いて靴を履いた。
誰もいない踊り場。要を先頭にエレベータに向かう。
「しかし、西園寺が出たらどうなるんだ?この建物」
吉田が人気の無いフロアーを見回している。シャムもそれをまねるように首をめぐらす。
「ああ、今度、京渓電鉄が向こうの造成地に駅作るって話だから売れるんじゃねえか?」
まるで他人事のように要はそう言い残してエレベータに乗り込む。
「でも、凄いですね」
ここ数日、要と自分の暮らしていた世界が余りに遠いことを思い知らされた誠はそう言うしかなかった。
「胡州帝国宰相の娘とは思えない部屋だったしな」
「吉田。どういう意味だ?」
予想通り噛み付いてきたと振り返って眼を飛ばす要に笑顔を返す吉田。
「言ったとおり。それ以外の意味なんかねえよ」
下っていくエレベータ。シャムが不安そうに眉間にしわを寄せている要の顔を見る。
「ああ、そう言えばシャム。花屋よってかんとまずいだろ」
「そうだよ!そのためにも要ちゃんのところに来たんだから!」
吉田とシャムが要のタレ目を覗き込む。
「何が言いたいんだ?」
エレベータの扉が開く。すばやくその間を抜けて歩き始めた要が吉田達に振り向いた。
「聞いてないのか?」
「だから何をだよ!」
そう要が言い放つと、困惑したように吉田とシャムが顔を見合わせる。
「タコの奴、ようやく腹を決めたんだわ」
それだけではわからない。そう言う表情を浮かべる要と誠。
「来年の六月にね、明石中佐と明華ちゃん結婚するんだって!」
一瞬の沈黙。マンションの自動ドアを通り過ぎた地点で、要はようやく意味が聞き取れたと言うように立ち止まった。
「マジか?」
吉田を見つめる要。誠は呆然と吉田達を眺めた。
「嘘ついてどうするんだよ。シャム、カウラには連絡したろ?」
シャムが吉田を不思議そうな顔で見つめている。頭を抱える吉田。
「そう言うことは早く言えよ!それで渡す花束のコーディネートをアタシに頼もうってんだろ?」
ようやく納得がいったとでも言うように要は目の前に止めてあったワンボックスのドアを開けた。
「吉田。重要なことはシャムに任せるんじゃねえよ。それにしても、暑いなあ。ったくクーラーくらい付けろっての!」
そう言うと要は石油エネルギー全盛期の地球製と思われる吉田の古いワンボックスカーの後部座席に座り込む。
「夏は暑いから夏なんだよ!我慢しなきゃ!」
助手席のシャムは平気な顔をしている。一方でガムを口に放り込んでエンジンをかける吉田も平然としている。誠は噴出す汗を感じてすぐに窓を全開に開けた。吉田の趣味らしく電子音が揺れているようなポップな音楽が大音量で流れる。
「花屋に任せりゃあ良いじゃねえか。それとも何か?アタシに指導料でもくれるのか?」
音楽に負けない程度の声で要が叫ぶ。
「同僚だろ?それに西園寺流華道家元の娘らしいことしてくれても罰は当たらないんじゃないか?」
そう言うと吉田は車を出した。
「それにこいつ。ほっとくと花とか食うからな」
「酷いよ俊平!アタシそんなもの食べないよ!」
ふくれっつらのシャム。誠は苦笑いを浮かべて様子をうかがっている。市の中心部へと向かう大通りに入り込んだ車は、吉田の的確なハンドルさばきで次々と先行する車両を抜き去る。
「そう言えばパーラが華道やりたいとか言ってたぞ。教えてやれよ」
吉田がそれとなく振り向く。要は無視してそのまま車窓を眺めている。工事中の立体交差の大通りを前に左折し、裏道に入る。少しすすけたような旧市街の町並みが続く。
「しかし、タコの奴心境の変化でもあったのかね。独身主義者とか言ってただろ?配属当時は」
開け放たれた窓からの風に前髪を揺らしながらつぶやく要。
「まあ俺はあいつのプロポーズがいつになるか楽しみだったんだけど、アレは無いよなあ……」
吉田の口から漏れたその言葉に、要とシャムが食いつくように目を向けた。
「先に言っとくぞ。あいつは一応俺の上司だ。あいつの不利になるようなことは言わねえからな」
「勿体付けんなよ。吉田のことだからカメラ仕掛けるとか盗聴器しかけるとかしてよく知ってるんだろ?教えろよ」
要が運転している吉田の頬をぺたぺたと叩く。目を輝かせているシャムが黙って吉田を見つめる。
「だから、たいしたことは無いんだって!」
そう言うと車がすれ違うには難しいような細い路地へとワンボックスを向かわせる吉田。
「まあいいか、どうせ叔父貴が言いふらすだろうからそっちから聞くわ」
そう言うとあきらめたように要は後部座席で思い切り伸びをした。
保安隊海へ行く 25
住宅街に伸びる細い道が途切れ、アーケードが続く商店街に車はたどり着いた。白いワイシャツがまぶしい部活帰りのような高校生の自転車の車列が見える。宅配便のワゴン車が通り過ぎるのを確認すると、吉田はそのままメイン通りを右折した。かなり寂れた商店街である。郊外型大型店の人気は豊川でも例外ではなかった。
『平河花店』と書かれた看板の前でワンボックスは止まった。
「ちょっと俺は車置いてくるわ」
シャム、要、誠が下りるのを確認すると、吉田はそのまま車を走らせた。
「またここか」
要はそう言うと店の中に入った。名前の工夫の無さに比べて、店内は比較的明るく改修されたばかりという雰囲気だった。
「いらっしゃい……ってシャムちゃん!また来てくれたのね」
「へへへ。来たよ」
店の奥から出てきた若い女主人はシャムの頭を撫でていた。しかし、彼女の視界に要が入ると、少し緊張したような表情を浮かべた。
要は冷蔵庫の中の花を一つ一つ確認するように見つめている。
「今日はどう言った花をお探しで……」
おどおどとした調子で要に話しかける女主人。
「花の保管方法は教えてやったようにしたんだな」
要はそう言うと女主人の方に目をやった。
「ええ、保存温度も西園寺さんのおっしゃるとおりにしましたから」
その声を聞くと笑顔を浮かべた要が冷蔵庫の薔薇の花に手を伸ばした。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 2 作家名:橋本 直