遼州戦記 保安隊日乗 2
そういい残して茜は車を走らせた。
「おい、何見てんだよ!」
タバコをくわえたまま要は誠の肩に手をやる。
「別になにも……」
「じゃあ行くぞ」
そう言うと要はタバコを携帯灰皿でもみ消し、マンションの入り口の回転扉の前に立った。扉の横のセキュリティーシステムに暗証番号を入力する。それまで銀色の壁のように見えていた正面の扉の周りが透明になって汚れの一つ無いフロアーがガラス越しに覗けるようになった。
建物の中には大理石を模した壁。いや、本物の大理石かもしれない。何しろ胡州一の名門の一人娘の住まうところなのだから。
「ここって高いですよね?」
「そうか?まあ、親父が就職祝いがまだだったってんで、買ってくれたんだけどな」
根本的に要とは金銭感覚が違うことをひしひしと感じながら、開いた自動ドアを超えていく要についていく誠。
「茜ねえ……あの親子はどうにも苦手でね。何を聞いても暖簾に腕押しさ、ぬらりくらりとかわされる」
要はエレベータのボタンを押した。その間も誠は静かな人気の無い一階フロアーを見回していた。すぐにその目は自分を見ていないことに気づいた要の責めるような視線に捕らわれる。仕方がないというように誠は先ほどの要の言葉を頭の中で反芻した。
「まあ、考え方は似てますよね」
「気をつけな。下手すると茜の奴は叔父貴よりたちが悪いぞ」
エレベータが開き要仕切るようにして乗り込む。階は9階。誠は人気の無さを少しばかり不審に思ったが、あえて口には出さなかった。たぶん要のことである。このマンション全室が彼女のものであったとしても不思議なことは無い。そして、もしそんなことを口にしたら彼女の機嫌を損ねることはわかっていた。
「どうした?アタシの顔になんかついてるのか?」
「いえ、なんでもないです」
誠がそんな言葉を返す頃にはエレベータは9階に到着していた。
黙ってエレベータから降りる要。それに続く誠。フロアーには相変わらず生活臭と言うものがしない。誠は少し不安を抱えたまま、慣れた調子で歩く要の後に続いた。東南角部屋。このマンションでも一番の物件であろうところで要は足を止める。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと要はドアの横にあるセキュリティーディスプレイに10桁を超える数字を入力する。自動的に開かれるドア。茜はそのまま部屋に入った。
「別に遠慮しなくても良いぜ」
ブーツを脱ぎにかかる要。誠は仕方なく一人暮らしには大きすぎる玄関に入った。ドアが閉まると同時に、染み付いたタバコの匂いが誠の鼻をついた。靴を脱ぎながら誠は周りを見渡した。玄関の手前のには楽に八畳はあるかという廊下のようなスペース。開けっ放しの居間への扉の向こうには、安物のテーブルと、椅子が三つ置かれている。テーブルの上にはファイルが一つと、酒瓶が五本。その隣にはつまみの裂きイカの袋が空けっ放しになっている。
「あんま人に見せられたもんじゃねえな」
そう言いながら要はすでにタバコに火をつけて、誠が部屋に上がるのを待っていた。
「ビールでも飲むか?」
そう言うと返事も聞かずにそのまま廊下を歩き、奥の部屋に入る要。ついて行った誠だが、そこには冷蔵庫以外は何も見るモノは無かった。
「西園寺さん。食事とかどうしてるんですか?」
「ああ、いつも外食で済ませてる。楽だからな」
そう言って要は冷蔵庫一杯に詰められた缶ビールを一つ手にすると誠に差し出す。
「空いてる部屋あったろ?あそこに椅子あるからそっちに行くか」
そう言うと要はスモークチーズを取り出して台所のようなところを出る。
「別に面白いものはねえよ」
居間に入った彼女は椅子に腰掛けると、テーブルに置きっぱなしのグラスに手元にあったウォッカを注いだ。
「まあ、冷蔵庫は置いていくつもりだからな。問題は隣の部屋のモノだ」
口に一口分、ウォッカを含む要。グラスを置いた手で、スライス済みのスモークチーズを一切れ誠に差し出す。誠はビールのプルタブを切り、そのままのどに流し込んだ。
「隣は何の部屋なんですか?」
予想はついているが念のため尋ねる誠。
「ああ、寝室だ。ベッドは置いていくから。とりあえず布団一式とちょっと必要なファイルがあってな」
今度はタバコを一回ふかして、そのまま安物のステンレスの灰皿に吸殻を押し付ける。
「まあ、野球部の監督としては結構大事なもんだ」
要は今度はグラスの半分ほどあるウォッカを一息で飲み下してにやりと笑う。
「それにしても、茜さんにした『カネミツ』の話。本当ですか?」
要のタレ目がにやりと笑う。
「ああ、あれならカマかけてみたんだ」
グラスにウォッカを注ぐ要。誠は半分呆れながらその手つきを観察する。
「叔父貴は自分から状況を作るようなことはしねえよ。あくまでも相手に手を打たせてから様子を見てカウンターでけりをつけるのが叔父貴流だ。まあ、手札としての『カネミツ』の有効利用のために吉田辺りを使って噂を広めるくらいのことはするかもしれねえがな。まああの二人はどうにもねえ。騙し騙されて数十年。なかなか不思議な縁と言う奴だな」
グラスを顔の前にかざして、いつもの悪党の笑顔を浮かべる要。
「しかし、あの機体はほとんど戦略兵器じゃないですか!国際問題に発展する可能性だって……」
「その性能とやらもすべて叔父貴の息のかかった技術屋の口からでた数字だろ?当てになるもんじゃねえよ。まあ、叔父貴のことだから過小評価している可能性もあるんだがな」
そう言うとまた要はウォッカの入ったグラスを傾けた。
「まあ叔父貴と吉田のお遊びの相手に主要国の情報機関が寝ずにがんばってくれているのには頭が下がるがね。叔父貴のことだ、そんな様子を腹抱えて大笑いしてるんじゃねえか?」
口にスモークチーズを放り込んで、外の景色を眺める要。窓には吹き付ける風に混じって張り付いたのであろう砂埃が、波紋のような形を描いている。部屋の中も足元を見れば埃の塊がいくつも転がっていた。
「西園寺さん。掃除したことあります?」
そんな誠の言葉に、口にしたウォッカを吐きかける要。
「……一応、三回くらいは……」
「ここにはいつから住んでるんですか?」
要の顔がうつむき加減になるのを見ながら誠からの言葉に黙り込む要。たぶん部隊創設以来彼女はこの部屋に住み着いているのだろう。寮での掃除の仕方、それ以前に実働部隊の詰め所の彼女の机の上を見ればその三回目の掃除から半年以上は経っていることは楽に想像できた。
「掃除機ありますか?」
「馬鹿にするなよ!一応、ベランダに……」
「ベランダですか?雨ざらしにしたら壊れますよ!」
「そう言えば昨日の夜、電源入れたけど動かなかったな」
絶句する誠。しかし、考えてみれば胡州の選帝公の筆頭である西園寺家の一人娘。そんな彼女に家事などが出来るはずも無い。そう言うところだけはきっちりとご令嬢らしい姿を示して見せる要。
「じゃあ、来週の30日。掃除機借りてきますんで掃除しましょう」
「やってくれるか!」
「いえ!僕が監督しますから西園寺さんの手でやってください!」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 2 作家名:橋本 直