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茜色のどんぐり

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 その塀は古い2階立てアパートの庭側を隠していた。1階にも2階にも扉が4個づつある。どれだかわかるわけない。突き止める為にコンコンダッシュする訳にはいかないし。仕方なく塀の前に戻ってきた。すると微かに声が聞こえた。
「ここのコード進行はややこしいんだぜ。あ、コラ。喧嘩するなよ。しっ!しっ!大家に見つかったらヤバいんだから騒ぐなっちゅーの」若い男の子の声だった。
 覗いてみたいのに木で出来た塀は穴1つなかった。いつか猫がくぐり抜けて行った所も鬱蒼と草が生い茂り駄目だった。そんな事を夢中でやっていたので、さっき目が合ったお婆さんがいつの間にか後ろにいて、ジッと見ているのに全然気がつかなかった。
「あんた、何してる?」心臓が、Aカップの貧相な胸を突き破って飛び出すんんじゃないかと思った。茜は真っ赤になって立ち上がり、砂を払ってお辞儀をして足早に立ち去った。恥ずかしくて何も言えなかった。
本当、私何してんだ。気を落ち着かせる為に芋ケンピを食べなければ。家に着くとコートを脱ぐ暇も惜しんで、芋ケンピの袋を破って窓際に座り込んだ。
 ぼりっぼりっ・・ ぼりっぼりっごりっ・・・あぁ、美味しい。
 窓の外に見える樫が風に揺れて、バラバラと実を落とした。実が陽気な音をたてて、プラスチックの床に散らばっていく。心地よい音に茜は安心して、芋ケンピを口にくわえたまま目を閉じた。
 ぼりっぼりっ がりっがりっ ぼりぼりぼり・・・
 砂利を鳴らして茜は歩いている。空には大きな三日月がかかっていて、昨夜切った親指の爪みたいだ。前を行く団体はかつての同僚達。皆それぞれに真剣な面持ちでひたすら足を動かしている。何処に行くんだろう?辺りはやけに青くて・・・何だこれ。黄色くて短い棒みたいな物が一面びっしり生えている。よく見ると芋ケンピだった。茜が歩いていたのは砂利じゃなくて芋ケンピだった。芋ケンピは先っぽが尖っていて、錐みたいだ。茜の靴も穴が空いている。痛いよ。茜は一歩も進めなくなった。けれど同僚達の行進は止まらない。待って・・
「待って」慌てて目を開くともう夕方だった。窓からは、やっぱりキャロットジュースみたいな夕日の光が長く斜めに差し込んでいた。食べながら寝ていたんだ。茜はゆっくりと手を伸ばし、手入れを怠って目立ってきた足の無駄毛を引っ張った。見られる張り合いがなくなったからか、女磨きまで怠っていた。
あーぁ。全く。何やってんだか。

「あ、芋ケンピの人」振り返ると、いつか道でぶつかった男の子が、ジャケットのポケットに両手を突っ込みながら茜を見つめていた。くすんだカーキ色のワークキャップの下から、丸い目が秋の太陽光を反射して好奇心にきらめきながら覗いている。
「今日は芋ケンピ、持ってないの?」
「持ってない。あの時はたまたまタイミングが良かったって言うか、悪かったって言うか・・・」言葉を濁す茜を見つめていた男の子は軽く言った。「俺も芋ケンピ好き」
「芋ケンピの人、名前なんて言うの?」やっぱり十代みたいな笑顔で男の子は聞いてきた。
「岡田茜」その笑顔についつられて名乗ってしまった。
「へー 可愛い名前だね。あ、だから茜色のベレー帽被ってんの?」
「いや別に、そんな、深い意味は、ないんだけど・・・」何だかこの人、苦手だな。そんなに聞いてこなくてもいいじゃん。あんたに関係ないじゃん。茜はムキになって言い返した。
「いいじゃん別に。勝手でしょ」
「いや。すごくよく似合うからさ。名前も可愛いけど、容姿も可愛いなって」手のひらを通り過ぎる水の如くさらっと言われて、茜は一瞬にずぶ濡れになる様に一気に頰を染めた。
「お、大人をからかわないでくれない? あなた、学校行かなくていいの?」男が眉間に皺を寄せた。
「俺、一応今年で30になるんだけど・・・」
「うっそ!」思わず言って口を塞いだ。そう言われてよく見ると、口元から顎にかけて泥棒髭の剃り跡が、茜が長年愛用している軽石のように薄汚れて目立っている。
「ま、俺、童顔だから。こう見えてもプー太郎なんすよ」何故か堂々と偉そうに男は言った。
「それって、胸張って言える事じゃないじゃん。30の男としてプーさんって痛過ぎる」茜は冷たく言い放った。
「うーん・・そりゃそうなんだけど。俺、今までマジで色んな職種で働いてきたんだけど、自分に何が向いてるのかわかんないって言うか、今いちやり甲斐がないって言うか。迷ってる感じなんすよ」
「何それ。ただ我が儘なだけじゃん」茜は苛々していた。自分は職種はどうあれ、ずっと働いて行こうとしていた職場に簡単に切られてしまったのに。切られる心配もなく、何が自分に向いているのか考えて自分勝手に職を転々としてきた目の前の男の気持ちが理解出来なかった。どうしても理解出来なかった。
「厳しいっすね。そう言われればそうなんだけど。一応俺なりに色々と考えてはいるんすよ」茜は丁度手に持っていた樫の実を男めがけて思いっきり投げつけた。
「頭で考えてる時間があるなら、何でもいいから働けよ!」そう捨て台詞を残し、茜は全速力で走って行った。
 走れるだけ走った。愛用のサボの底が剥がれてしまうんじゃないかと思う位に、お祭りみたいな音を喧しくたてて走った。体が暑くなって汗が浮かんできた。鼻水まで垂れてきた。自分のアパートに着き、玄関の扉を騒がしく開けて中に倒れ込んだ。激しく息をつき、涙まで垂れてきた。未練や不公平さや己の身の居たたまれなさが一遍に押し寄せてきて、嗚咽を止められなかった。悲しいのは諦めてしまう事だと誰かが言っていたような気がする。だから、悲しまないように泣いた。子どもみたいに恥ずかしいくらい大袈裟な声を上げて泣いた。同調するかのように、何処かでマツムシが大きな鈴を振るみたいな音を出していた。まだ夜でもないのに。

「もしもし。岡田様でいらっしゃいますか? こちら、先日面接にお越し頂きました出版社の鈴木と申します」全くの不意を突かれた電話に茜は呆然とした。先日の記憶を手繰るのに幾分時間がかかる程、茜の頭は空っぽで、更には例に寄って芋ケンピによって逃避行中だった。「あ・・は、はい・・・」
「もしもーし。大丈夫ですか? 面接と書類選考の結果、仮採用に決定しました。しかし、あくまで仮ですので正式採用ではありません。今週末に予定しております説明会に参加してもらい、正式に採用とさせて頂きます。宜しいですか?」あまりの事に頭が混乱して、急いで芋ケンピを叩き落とし、書き留められる物を探した。
「はい。すみません。えーっと、当日用意すべき物はなにかありますか?」
「はい。今申します。当日は、筆記用具と照明写真と・・・」
 
 夕方、ベランダで寝転び、茜空を眺めながら残りの芋ケンピを食べていた。芋ケンピも、もうこれで最後だった。食べ納めだ。ベランダには、相変らず樫の実が所狭しと転がっている。茜は綺麗に処理した素足で突いて転がした。思いっきり樫の実をぶつけた男を思い出した。 ごめんね。きっと、八つ当たりだったんだ。
 いつかのマツムシだろうか。近場から優し気な音量で鳴き始めた。最後の一本を口に入れようとしたその途端、樫の実が雨のように降ってきた。驚いたので思わず芋ケンピで歯茎を刺してしまった。「痛っ!」
作品名:茜色のどんぐり 作家名:ぬゑ