茜色のどんぐり
ぼりっぼりっ ごりごりごり・・・ ぼりっぼりっ ごりごり・・
あぁ、美味しい。なんて美味しいの・・・この固い歯ごたえが堪らない。頭に響く感じの噛み音も堪らない。ずっと食べていられる。
内容量の割には大袈裟な袋を抱えて、茜は休む事なく手と口を動かし続け、芋ケンピを体内に送っていた。
ぼりっぼりっ ごりっごりっ・・
小さな名ばかりのベランダに足を投げ出して窓際に寄り掛かって腰掛けながら、朝、コンビ二で買ってきた芋ケンピを食べていた。これが今日一日分のご飯だ。もうかれこれ2時間ばかりずっと食べ続けている。
両方の顎で噛まないと顔が歪んじゃう。そう思って長い一本を抜き出し、前歯と奥歯で割ってから両方の奥歯に分けて噛み始めた。なたね油とオリゴ糖の風味と香りが鼻に抜けていく。あぁ、美味しい。
小さい頃から固いものを噛むのが好きだった。フワフワのショートケーキより固くて噛みごたえのある醤油味のお煎餅が好きだった。大人になっても固いものが好きなのは変わらず、お煎餅では物足りず甘さも摂れる芋ケンピに変わった。
大人の女には糖分は不可欠だと、わかる様になったのがいつからかは忘れたけど、とにかく甘い物は荒んだ気持ちを和ませてくれる。固いものは苛々を和らげてくれる。気がする。
ぼりっぼりっ ごりごりごり・・・
岡田茜は一昨日、長年付き合っていた彼氏に振られた。昨日、働いていた会社を首になった。今流行の不景気でリストラされたのだ。そして今日、月が変わって10月になった。失業手当の申請に行く為の10日間の待機期間中だった。あまりの唐突なスピードについて行けてない頭の茜は、とりあえず休み気分で芋ケンピを味わっていた。
高い秋空にひつじ雲が、文字通り羊の群れのように呑気に広がり、気まぐれに吹く風は冷たく気持ち良かった。ベランダの前には大きな樫の木があって、今はくすんだ緑色をしている。日差しはまだ強く、何処からか誰かの弾くギターが聞こえた。
一小節弾いては引っ掛かり、又弾いては音を間違えして謙遜にも上手くはなかった。それでも茜が食べ始めた辺から聞こえ始めたので、2時間近く弾いている。食べる事に集中していた初め1時間程は咀嚼音が途切れた時に聞こえるBGMのように気にもしなかったが、食欲と気持ちが満たされてくるとやっと気付く様になった。
何処から聞こえてくるんだろう?茜はようやく芋ケンピワールドから現実に思考を移した。
誰が弾いているんだろう? 下手っくそ・・・小さなベランダに出て手すりから周りを見回してみたが、何処から聞こえてくるのか全く掴めなかった。強い風が吹いた。茜の頭にコツンとなにかがぶつかった。と思うと、次々降ってきた。
足下を見ると、ダークチョコレート色のずんぐりむっくりした樫の実だった。オイルで湛然に磨き込んだばかりの様に艶があって、揃いの粋な縞模様のベレー帽を被っている。可愛い・・・茜は夢中で拾い集め、部屋に飾った。
うちのベランダはこんなに樫の実が落ちてきてたんだ。ここに住んでもう4年に鳴るのに全然知らなかった。その筈だった。茜は朝から残業して夜までのハードな工場勤務をしていた。休みは週に1回。多くて2回。ベランダに散らばっている樫の実を気付く余裕なんて何処にもなかった。仕事が全てだった。そこが居場所だった。
・・・そうだ。もう首になったから行かなくていいんだ。あそこに・・
又しても芋ケンピが食べたくなったが、かなりお腹が苦しかった。ので、外に散歩に行く事にして服を選んだ。頼りないギターの音は辿々しく引き続き聞こえてくる。茜は樫の実に倣い赤いベレー帽を小粋に被った。
季節は何をきっかけに次の季節に変わるのを決めるんだろう?
すっかり秋めいている公園や、住宅街を通りながら茜は思った。ついこの間までは、何処も暑くて蝉が鳴き喚いて力強い生命力が溢れていたのに。同じ景色でも空気が違うと随分違う。電信柱の後ろから三毛猫が飛び出てきて、しなやかに尻尾を降って軽やかに前を横切り、熟れ過ぎた柿の実が墜落している塀の下に潜り込んだ。そういえば、もうギターの音は聞こえない。まぁいいや。少し歩くけど街まで行ってみよう。どうせ時間はたくさんあるし。茜はベージュ色のトレンチコートのポケットに両手を突っ込みゆっくり歩いて行った。
夕方頃、茜は大きなビニール袋一杯に芋ケンピを買って帰っていた。大きくて赤い夕日が眩しくてキャロットジュースの中にいるみたいだった。遠くの山や建物なんかは黒いシルエットになって、まさに夕焼け小焼けの歌だった。あの歌詞どんなだったっけ? 思い出そうとして、周囲への注意を怠ったらしい。
いきなり、男の子が肩にぶつかってきた。茜は驚いて、提げていたビニール袋を投げ落として尻餅をついた。男の子も少し後ろに吹き飛んだ。芋ケンピが無惨に散らばった。
「ってぇー・・」ワークキャップを目深に被り、厚ぼったい生地のパーカーを着た小柄な男の子は、すぐに立ち上がった。
「あ、すみません!俺、よそ見してたもんで。怪我とかないですか?」早送りでもしているスピードで茜の腕を引っ張り立たせてから、散らばった芋ケンピの回収にかかる。
茜も慌てて拾った。全て拾い集めると、茜にビニール袋を渡しながら男の子はにこやかに言った。
「芋ケンピ、好きなんですね」まるで十代のような笑顔だった。
ハローワークの申請の帰り、友達の晶子と久しぶりに会ってご飯を食べた。
「あんた、太ったんじゃない?」開口一番、ズバリと晶子は言った。
「そうかなぁ。最近、ご飯代わりに芋ケンピばっか食べてるからかなぁ」
「そんなの食べてんの? 揚げ菓子じゃん。カロリー半端ないでしょー膨れるよ」スリムな足を組み直して晶子は指摘した。こざっぱりとした顔の晶子はさすがにエステで働いているだけあって、美容には気を使っている。
「んー・・かも。でも食感が止められないんだよね」茜が残念そうな顔をした。
「確かに固いから、食べごたえあるけどね。気をつけてよー」
「何を?」
「刺さらない様に」サラダを口に運びながら晶子は言った。
「何処に?」
「歯とか咽とか、ハートとか」途端、茜が吹き出した。
「何それー? いくら30つっても年寄りじゃないんだからー大丈夫だってば。それにハートって何よー?」
「芋ケンピは恋を呼ぶ」さらっと言う晶子に、茜は更に吹き出した。
「呼ぶわけないー」そんな茜をしげしげと真顔で眺めていた晶子は言った。
「茜って、仕事も男もなくしたのにお気楽だね。すごい羨ましいよ」
別に気楽な訳じゃないんだけど・・・晶子と別れた帰り道、鞄に大量に詰め込まれた求人情報雑誌だとか広告に相俟って、茜は何だかやり切れない気持ちだった。
別に現場で踏ん張って頑張っている人に、気持ちをわかってって思ってるわけじゃないんだけど。それにしてもなぁ・・・
下手くそなギターの音が漂うように聞こえてきた。音源はかなり近かった。今なら何処かわかりそう。茜は木の実を探すリスみたいに周りの住宅を見回した。何処?
高い塀を飛び上がって見たら、庭を掃いているお婆さんと目が合ってしまったので慌てて通り過ぎた。辿り着いた音はいつか三毛猫が飛び込んで行った塀の中から聞こえてきた。
あぁ、美味しい。なんて美味しいの・・・この固い歯ごたえが堪らない。頭に響く感じの噛み音も堪らない。ずっと食べていられる。
内容量の割には大袈裟な袋を抱えて、茜は休む事なく手と口を動かし続け、芋ケンピを体内に送っていた。
ぼりっぼりっ ごりっごりっ・・
小さな名ばかりのベランダに足を投げ出して窓際に寄り掛かって腰掛けながら、朝、コンビ二で買ってきた芋ケンピを食べていた。これが今日一日分のご飯だ。もうかれこれ2時間ばかりずっと食べ続けている。
両方の顎で噛まないと顔が歪んじゃう。そう思って長い一本を抜き出し、前歯と奥歯で割ってから両方の奥歯に分けて噛み始めた。なたね油とオリゴ糖の風味と香りが鼻に抜けていく。あぁ、美味しい。
小さい頃から固いものを噛むのが好きだった。フワフワのショートケーキより固くて噛みごたえのある醤油味のお煎餅が好きだった。大人になっても固いものが好きなのは変わらず、お煎餅では物足りず甘さも摂れる芋ケンピに変わった。
大人の女には糖分は不可欠だと、わかる様になったのがいつからかは忘れたけど、とにかく甘い物は荒んだ気持ちを和ませてくれる。固いものは苛々を和らげてくれる。気がする。
ぼりっぼりっ ごりごりごり・・・
岡田茜は一昨日、長年付き合っていた彼氏に振られた。昨日、働いていた会社を首になった。今流行の不景気でリストラされたのだ。そして今日、月が変わって10月になった。失業手当の申請に行く為の10日間の待機期間中だった。あまりの唐突なスピードについて行けてない頭の茜は、とりあえず休み気分で芋ケンピを味わっていた。
高い秋空にひつじ雲が、文字通り羊の群れのように呑気に広がり、気まぐれに吹く風は冷たく気持ち良かった。ベランダの前には大きな樫の木があって、今はくすんだ緑色をしている。日差しはまだ強く、何処からか誰かの弾くギターが聞こえた。
一小節弾いては引っ掛かり、又弾いては音を間違えして謙遜にも上手くはなかった。それでも茜が食べ始めた辺から聞こえ始めたので、2時間近く弾いている。食べる事に集中していた初め1時間程は咀嚼音が途切れた時に聞こえるBGMのように気にもしなかったが、食欲と気持ちが満たされてくるとやっと気付く様になった。
何処から聞こえてくるんだろう?茜はようやく芋ケンピワールドから現実に思考を移した。
誰が弾いているんだろう? 下手っくそ・・・小さなベランダに出て手すりから周りを見回してみたが、何処から聞こえてくるのか全く掴めなかった。強い風が吹いた。茜の頭にコツンとなにかがぶつかった。と思うと、次々降ってきた。
足下を見ると、ダークチョコレート色のずんぐりむっくりした樫の実だった。オイルで湛然に磨き込んだばかりの様に艶があって、揃いの粋な縞模様のベレー帽を被っている。可愛い・・・茜は夢中で拾い集め、部屋に飾った。
うちのベランダはこんなに樫の実が落ちてきてたんだ。ここに住んでもう4年に鳴るのに全然知らなかった。その筈だった。茜は朝から残業して夜までのハードな工場勤務をしていた。休みは週に1回。多くて2回。ベランダに散らばっている樫の実を気付く余裕なんて何処にもなかった。仕事が全てだった。そこが居場所だった。
・・・そうだ。もう首になったから行かなくていいんだ。あそこに・・
又しても芋ケンピが食べたくなったが、かなりお腹が苦しかった。ので、外に散歩に行く事にして服を選んだ。頼りないギターの音は辿々しく引き続き聞こえてくる。茜は樫の実に倣い赤いベレー帽を小粋に被った。
季節は何をきっかけに次の季節に変わるのを決めるんだろう?
すっかり秋めいている公園や、住宅街を通りながら茜は思った。ついこの間までは、何処も暑くて蝉が鳴き喚いて力強い生命力が溢れていたのに。同じ景色でも空気が違うと随分違う。電信柱の後ろから三毛猫が飛び出てきて、しなやかに尻尾を降って軽やかに前を横切り、熟れ過ぎた柿の実が墜落している塀の下に潜り込んだ。そういえば、もうギターの音は聞こえない。まぁいいや。少し歩くけど街まで行ってみよう。どうせ時間はたくさんあるし。茜はベージュ色のトレンチコートのポケットに両手を突っ込みゆっくり歩いて行った。
夕方頃、茜は大きなビニール袋一杯に芋ケンピを買って帰っていた。大きくて赤い夕日が眩しくてキャロットジュースの中にいるみたいだった。遠くの山や建物なんかは黒いシルエットになって、まさに夕焼け小焼けの歌だった。あの歌詞どんなだったっけ? 思い出そうとして、周囲への注意を怠ったらしい。
いきなり、男の子が肩にぶつかってきた。茜は驚いて、提げていたビニール袋を投げ落として尻餅をついた。男の子も少し後ろに吹き飛んだ。芋ケンピが無惨に散らばった。
「ってぇー・・」ワークキャップを目深に被り、厚ぼったい生地のパーカーを着た小柄な男の子は、すぐに立ち上がった。
「あ、すみません!俺、よそ見してたもんで。怪我とかないですか?」早送りでもしているスピードで茜の腕を引っ張り立たせてから、散らばった芋ケンピの回収にかかる。
茜も慌てて拾った。全て拾い集めると、茜にビニール袋を渡しながら男の子はにこやかに言った。
「芋ケンピ、好きなんですね」まるで十代のような笑顔だった。
ハローワークの申請の帰り、友達の晶子と久しぶりに会ってご飯を食べた。
「あんた、太ったんじゃない?」開口一番、ズバリと晶子は言った。
「そうかなぁ。最近、ご飯代わりに芋ケンピばっか食べてるからかなぁ」
「そんなの食べてんの? 揚げ菓子じゃん。カロリー半端ないでしょー膨れるよ」スリムな足を組み直して晶子は指摘した。こざっぱりとした顔の晶子はさすがにエステで働いているだけあって、美容には気を使っている。
「んー・・かも。でも食感が止められないんだよね」茜が残念そうな顔をした。
「確かに固いから、食べごたえあるけどね。気をつけてよー」
「何を?」
「刺さらない様に」サラダを口に運びながら晶子は言った。
「何処に?」
「歯とか咽とか、ハートとか」途端、茜が吹き出した。
「何それー? いくら30つっても年寄りじゃないんだからー大丈夫だってば。それにハートって何よー?」
「芋ケンピは恋を呼ぶ」さらっと言う晶子に、茜は更に吹き出した。
「呼ぶわけないー」そんな茜をしげしげと真顔で眺めていた晶子は言った。
「茜って、仕事も男もなくしたのにお気楽だね。すごい羨ましいよ」
別に気楽な訳じゃないんだけど・・・晶子と別れた帰り道、鞄に大量に詰め込まれた求人情報雑誌だとか広告に相俟って、茜は何だかやり切れない気持ちだった。
別に現場で踏ん張って頑張っている人に、気持ちをわかってって思ってるわけじゃないんだけど。それにしてもなぁ・・・
下手くそなギターの音が漂うように聞こえてきた。音源はかなり近かった。今なら何処かわかりそう。茜は木の実を探すリスみたいに周りの住宅を見回した。何処?
高い塀を飛び上がって見たら、庭を掃いているお婆さんと目が合ってしまったので慌てて通り過ぎた。辿り着いた音はいつか三毛猫が飛び込んで行った塀の中から聞こえてきた。