鳥のいる風景
そんなことを考えながら煙草の灰を灰皿に落としこんで顔を上げたとき、武がそれまでとはまったく違った眼で俺を見つめていることに気づいた。膝の上に乗せられた黒い鞠のようなものを撫でながら、奇妙な罪悪感のようなものに操られているかのように、俺の顔を見るたびに昔以上に情けなさそうな笑いを浮かべるとまた膝の上の鞠に集中する。どいつもこいつもそうなんだ。自分の掌の上のものだけがかわいいんだ。明らかに自分の論理がゆがんでいるのがわかりきっているだけに、ここで一区切りつけることが必要なんだ。俺はそう直感すると体をその直感に任せていた。
「畜生」
俺の手は自然とその鞠を叩き落としていた。幾何学文様が描かれた絨毯の上を手垢で黒くなった鞠がころころ転がっていき、壁の所で躊躇したように止まった。その中央に浮き上がる赤い線。かつての名残をとどめる赤い糸がまるであの鳥の口のように見える。今のもそれはあの忌まわしい叫びを発しそうに見える。俺は鞠を叩いたときと同じ中腰の姿勢のままその鞠をじっと見つめていた。
武は何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がるとそのまま部屋を出て行った。俺は力尽きてそのままソファーに倒れこんだ。
一つ一つの疑問。どうしてそんなことをするのだろうと言う疑問を抱えながら、俺は爆発音を耳に響かせながら目を覚ました。祭りの朝、号砲の音が響き渡る。時計を見ればいまだ六時前、そのくせいつもは見捨てられている道路を歩く人影が目についてくる。ひときわ胃の下に染み渡る空腹に命ぜられて食堂に行った。用意された朝飯は冷え切っていたが、一日ぶりに食べる食事の味は俺の舌に妙に懐かしく響き渡った。それでいて吐き気がするのはなぜだろうか。結局そのすべてを食うことも出来ず、俺は部屋に戻ると手にポケットカメラを持って外へ出た。
カメラを片手に人々の群れがひび割れた道の上を移動している。俺もまた、その流れを利用して歩き続ける。風も無く、人々の無意識な熱気に蒸しあげられ、朝の空気は白くよどんで見えた。道を覆うように生える木々は、今まで見たことも無いような数の人々に怯えるようにその葉を揺らしている。俺はそのまま朱に塗り替えられた安っぽいコンクリートの鳥居をくぐり、砂利道の鳴る参道に入り込んだ。人々は思い思いに露店に引っかかったり、木々にまとわりついたり、カメラを構えたりしながら時を過ごしている。俺はどうすることもなくて、ただ参道を直進した。
この小さな集落にどうやってこれほどの人間が隠れていたのだろうか、そう思えるほどの人出に狭い境内は混乱していた。誰もがここにいる理由をこじつけるために笑顔を浮かべている有様が目に付いて、俺は人ごみを避けながら人員整理のために張られたロープを伝って本部席のあるテントの中に転がり込んだ。
「こっちこっち」
さもそれが当然といった風に安っぽいテーブルの上に置かれた時代遅れの無線機の隣で、実行委員長という腕章をつけた聡が手招きをする。その隣で立ち働く青年団員が、俺の方をめんどくさそうに見つめると形だけの会釈をする。どうもこの場に不釣合いに見える武は俺を見つけるとなにかに出くわしたような顔をして人ごみの中に消えていった。
「どうだ、凄いだろう。こんなに祭りに人が出るなんて、ここ数十年無かったことだぜ。あの古い神社の石っころがこんな効能を持っていたなんて、全くお釈迦様でもわかるめえってのはこのことだな。まあ見てろ」
聡はそう言うと携帯電話を手に立ち上がった。俺は奴の座っていた席に腰を下ろして目の前を横切る人々をぼんやりと眺めていた。後ろの方で馬の嘶きが聞こえる。俺は急に気分が悪くなって立ち上がった。
三頭の白馬が気だるそうに突っ立っている中庭を抜け、大きな欅の影を通り過ぎた。確かにそこには村の子供達が、世間の喧騒とは無縁なところで遊んでいた。その姿、無邪気で何一つ足りないものはないというような姿。それなのに俺はその姿の中に奇妙なほどの嫌悪感が輪郭をあらわにしていく。どうしようもないじゃないか。どうすればいいんだ。こめかみに手を当て、そこにあってしかるべき痛みの無いことを悲しむようにして俺の足は自然と森の方向へと向かっていた。
原生林の中に入っていく。果てしなく茂る笹を切り裂いて道はどこまでも続いていた。俺は足場の悪い獣道を迷うことなく一直線に進んだ。一体そこに何があるのか、そんなことは何一つわかりはしないが、ただあの村でつまらぬ光景を見るよりはいくらかましなように思えた。
手入れの行き届かない杉の森を歩くことは、特にこのような蒸し暑い日に一人だけで着の身着のままの格好で歩くことはそれほど生易しいものではない。胸に届くくらいまで生い茂る下草に悪戦苦闘しながら進んでいたかと思うと、急に視界が開けて目の前に大きな倒木が横たわっている。さらにその木に沿って進んでいくと腐りかけた雑誌とタイヤの山に打ち当たる。それでも俺はどうにかこうにかむき出しの肌に何箇所とない蚊にかまれた跡をつくりながら獣道を進んでいった。確かに無駄なことかもしれないが村に来たその日から、こうすることになるとはわかっていた。そんな気がしていた。
獣道は少しばかり間の抜けたように一際大きな倒木の周りで細い支線に分かれている。一体なぜこのような場所が生まれたのか、理解に苦しみながらその倒木に近づいていった。煙草に火をつけようと腰を上げた俺の目の前に動くものが映ったように感じた。ゆっくりとゆっくりとその丸いものは藪の下を移動していく。俺は思わず胸のポケットから小型のカメラを取り出してその物体が出てくるのを待った。
奴だ。心臓の鼓動が早くなってシャッターの上に載せた指が汗ですぺるのがわかる。突然自分の概念が破壊されたようだ、頭の中まで少しづつ曇ってきた。しかし、そんなことはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面を穿り返している。俺は息を殺してできるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて大きな木の根元の少し開けたところまで来て観察を続けた。こいつをどうにかしなければならない、すべての不安や憤りが急に人差し指に凝縮されたように感じた。俺の指はシャッターを切っていた。
ストロボの光が草叢を黄色く染める。
急に鳥は走り出した。決して早くない。大またで歩けばすぐにだって追いつくことができる。しかし、俺はあえて捕まえようともせずにその鳥の走っていく方向についていった。茶色い羽はこの土地ではかなり役に立つ。うっかりすると木の根や泥と勘違いして見失ってしまうこともたびたびあった。しかし慌てているのか、ばたばたと打ち鳴らす羽の音で俺は自分の間違いに気づきすぐ追跡を再開することができた。
森はだんだん暗く、深くなっていく。鳥は相変わらず無様な逃避行を続けている。それはまるで逃げるというよりも俺をどこかに案内しているようにも見える。もし、彼に急に立ち止まってじっとしているという能があれば、とうに俺は彼を見失っていただろう。