鳥のいる風景
鳥の逃げる速度が遅くなってきた。俺は時々立ち止まっては逃げていく鳥の姿をカメラに収める余裕が出てきた。鳥のほうは相変わらず必死になって疲れてきた体に鞭打ちながら森の奥に向かって走り続ける。
時計は十時をさしていた。もう三十分はこうして間の抜けた行進を続けたことになる。急に森が切り開かれて原っぱのようなところに出た。光が急に激しく俺の脳天を撃った。目の前が一瞬白くなり視界が奪われる。俺は眼を閉じて地面にうずくまった。時間が流れていった。俺は何度と無く立ち上がろうとしてみたが、足にそれまでにない疲れを感じて立ち上がれずにいた。さすがに三十を過ぎたからだにはかなりの無理が来ていたようで、足ばかりでなく体のあちこちが激しく痛み出した。
風を感じた。村を出て初めて感じる山から吹き降ろす冷たい風。俺の後ろの森が悲しく啼く。
クワー、鳥の鳴き声が林にこだまするのを聞いて俺は我に返った。真緑の木が一本、俺のちょうど正面にあった。これほど真剣に一本の木を見つめたのは久しぶりだ。それは様々に生い茂る木の中、一本だけ真っ直ぐにまるでこの森の空間を仕切る一筋の線のように伸び上がっていた。そこから分かれる枝はほかの木のねじけた枝を押しのけてこの広場一帯を覆い尽くし空と言う空をその緑色の広い葉で覆っていた。俺はその尊大な姿に少しの抵抗と同じくらいの敬意を払いながらゆっくりと近づいていった。そしてその枝の一本から垂れ下がっている奇妙な陰を俺の眼がなぞるようになったとき、俺の足はそれまでになくしっかりと大地を捉えるようになっていた。
ぶらさがっている奇妙な物体。風にその枝が揺れるたびに左右に、時折回転するようにしてそれはあった。近づくに従ってそれは人間の姿をなしているように見えた。俺の眼の高さの部分。それはシミだらけんジャージ。良く見ればかなりの間着古したようで、毛玉が多く浮き上がっている。筋張った右手。その手は昔、それもかなり昔には多くの物を運ぶ役にはたっていただろうが、今やその力の影は跡形もなく、肉は落ちて、浮き上がった血管と骨のあとだけが妙に物寂しげに俺の眼の陰に焼きついては消える。伸ばされた髪。後頭部で纏められたその髪は脂ぎって、そのくたびれたように不健康な頬にはえた無精ひげと重なって妙にやつれきった印象を見るものに与えた。
武だった。木の枝の一本、まるで仲間はずれにされたように下に向かって伸びる奇妙な枝にロープを巻きつけて、武は首を吊っていた。俺はゆっくりと近づいていって、その周りを何度か回った。足元には木で出来た台がちょこんと置かれているだけで、遺書のようなものは見当たらない。不思議なことかもしれないが、俺は取り乱すこともなく淡々とその死骸を見つめていた。口から泡のようなものを吹いて、白目をむいたその物体は決して気持ちのいいものではなかったが、少なくともこの村に入ってから初めて愛着の湧くようなものに出会ったような気がして、俺はさらに何回かその周りを回ってみた。何度回ってみてもただ風が吹くばかりで武は生き返る気配もなく、俺もやがてその歩みを止めた。ぼんやりと俺は地面に腰を下ろした。熱気を帯び始めた森の空気が俺の顔面を緩やかに撫でる。右手の先に当たるのは一昨日聡が撫で回していた丸っこい石。その正面には武が持っていたあの鞠が当たり前のように転がっている。俺はそれを手に持つと、軽く目の前で放り投げてみた。
「おい、何してるんだ」
青年団の一人が駆け込んでくる。俺はただ膝の上の鞠をころころと転がして見せた。鉢巻を締めた二十二三の男が後ろに駐在を引き連れてこちらに走ってくる。彼らは広場の中央にぶら下がった武の死体を取り巻いてただ呆然とそれを下ろすべきかどうか思い悩むことに夢中なようで広場の片隅で座っている俺のことなどまるで眼中に無いように見えた。
「おい、早く下ろしてやれよ」
「これ以上誰か入れるんじゃねえぞ」
「誰か本部に連絡しろ、早くしねえか」
広場に人が満ちてくる、俺はどうも居辛くなって立ち上がった。
「健一さん」
一番はじめにこの広場に現れた鉢巻を締めた男が俺を呼び止める。俺はその言葉に刺激されたように走り出した。人々はそんな俺をただ呆然と見送っていた。
「荷物、持とうか」
一語一語、間違えることを恐れるかのようにゆっくりと話す聡に、俺は持ってきた荷物を差し出した。まるでこの村に来てからの出来事が夢のように感じられる。奴はようやく安心したようにそれまでの不安げな足どりが少しだけ軽快になっているように見えた。聡は車のトランクを開け、まるで貴重品でも扱うように丁寧に俺の荷物をその中に入れる。おれはオートロックによって解除された後部座席のドアーを開き、昔のように無造作に座る。
「一応、禁煙だから・・・」
聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先ほどの饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。
日差しが絶え、次第に効き始めるクーラーの冷機に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる心地よい衝撃、聡の子守唄のような独り言、意識は次第にうすくなりかける。しかしなぜだろう、そう言うときに限って気まぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然と遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡のにごった目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
あのロータリーに車は止まり挨拶もせずに俺は車を降りた。ポケットから切符とハンカチを取り出し、右手に持ったハンカチで額の汗を拭いながら時代物の駅舎に填められた木の枠を持つ窓のほうを見つめた。中には二人の駅員がこのように客も降りない駅だと言うのに、いかにも忙しそうに立ち働いていた。一方は風邪でも引いているのか、口のところにマスクをしている。しかしそれを除けば、切れ込みを入れただけのような目も、潰れた鼻も、にきびだらけの頬も、時折、下を向いて帽子のつばをこする癖までも全く瓜二つだった。
そのうちの一人、マスクをしていない方の駅員が、雑巾を持ったまま窓枠の方に顔を向けたとき、ようやく珍しい乗車客を見つけたのか、マスクをしているほうの駅員の肩を叩くと雑巾を放り投げてそのまま奥の部屋へと消えていった。俺はその様子をじっと眺めていたが、このままホームにいっても仕方が無いと思って、とりあえず改札口に行こうと駅舎を横に見ながら歩き始めた。
かつては大いに栄えたのかもしれない。事実この長大なホームは二両編成のディーゼルカーが止まるにしては不必要な長さで、小さな村の中央部を占拠していた。周りの民家も、多くは半分崩れかけながらただここが村であったことを証明するためだけに立っていた。
そんな風景を見ながら改札口に行くと、二人の駅員が先を争うようにして改札口に立とうとしている。二人ともその定位置を確保することに一生懸命で、俺の方は眼中に無いと言ったような感じでおれは改札口の手前で立ち往生してしまった。
「困るなあ、それじゃあ通れないんだけど」