鳥のいる風景
通りは人々から見捨てられていた。放置された三輪トラックの荷台からセイタカアワダチソウが伸びている。道に切れ込んだクレバスの間にもその子供達がしつこくはびこっている。そして俺の足音が響く。俺だけのための道のように、その音は響く。かつて俺はこんな道をなにかに追われているような気になりながら必死になって走ったものだ。しかし、今はその追われる感覚などどこにも有りはしない。
コールタールを塗りたくられた電柱の陰を抜け、地蔵を目印に切通しの小道に入り、そのまま道なりに小さな落花生畑に転がり込む。かつてはここまで線香のにおいがした墓地のはずれも、人影もなく、ただ腐りかけた卒塔婆だけがこの地の意味するところを知らせてくれている。俺はそのまま柔らかい地面を慎重に通り過ぎ、踏み固められた墓地の小道に入る。墓地の周辺、新しく作られた無意味に大きな墓の続く分譲地を抜け、みすぼらしい旧家の墓の続く本堂の裏手にでた。目の前に続く緩やかな瓦の坂は、最近葺き替えられたように見えて、朝日のにごった光を灰色に変換して俺の顔面にたたきつける。俺は急に気が変わって石造りの階段を下りるのをやめ、泥濘の目立つ杉木立の中の道へと進んだ。
道はゆっくりと小さな丘の上にある寺から神社へと下っていた。子供の頃何度と無く歩いたこの道が、かなり荒れ果ててはいるもののまだ生きていることはうれしくもあり、悲しくもあった。昔のこと、取るに足りないつまらないことを考えながら歩いた。昔のように。土の感覚が冷たく、俺の意識を今の杉木立の中に送り返してくれるように。
ようやく杉木立が切れようとするときだった。寺と神社の敷地をしきる大人の膝ほどの土塁の上、なにやら丸い塊が蠢いているのが目に飛び込んできた。それは右に左に軽くその体をゆすりながらこちらの様子を窺っているように見えた。
あの鳥だ。そう直感すると同時に、俺の体は自然と二股に分かれた杉の木の陰に隠れていた。見れば見るほど、それは俺の意識を超越したように丸く大きく固まっていくように感じる。しかしそんなこととはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面をほじくり返してはしきりと何かを探しているようだった。俺は息を殺した。できるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて土塁のそばの少し開けた窪地まで来た。鳥の姿はこちらから丸見えになった。大きく裂けた口を時々開くが、その中身は血にまみれたように赤く、それを見るたびに背筋が寒くなるような気がした。
しかし、何より俺を驚かせたのはその眼だった。その眼は鳥の眼というよりも人間の眼に近かった。どこか悲しげでその眼と視線が合いそうになる度に俺はなぜかきまずい気分になって思わず眼を背けてなにも見えやしない杉木立の隙間からのぞく空を見つめた。空は昨日と変わらず、その前の日とも変わらず、薄い煙のような雲をあちこちに撒き散らかして俺の頭の上に広がっている。その一点の光、太陽は葉陰の間をすり抜けるようにして俺とこの鳥に同じように照り付けていた。俺はじっとそんな林の下の光景を見つめながら時がやってくるのをじっと待っていた。
鳥がよたよたと倒木に向かって歩き始め、柔らかなおがくずに足を取られながら辺りを見まわせる位置まで来ると不意に俺のほうに眼を向けた。
それが合図だったのかもしれない。俺は木の陰から飛び出しそいつを捕まえようと倒木めがけて突進した。鳥はのんびりと俺を待ち受けているように見えたが、俺がその手を伸ばせば届くというところまで来た時ひょいと向こう側へ飛び降りた。俺はそれを追って慣れないサンダルを脱ぎ捨ててその障害物を飛び越えた。
鳩が二羽、その音に驚いて飛び出した。俺もまた眼を見張った。びっしり生えた苔の上、一つとして動くものも無く静まり返っている。もしあれほどの大きさのものが動き回っていたとすれば、痕跡はどこかに残っている筈なのだが、なめらかに光る苔にはどこにもその爪あとは見えやしない。俺は奴の隠れそうな穴ぼこや木の雨露を見つけようとしたが、五メートル向こうの杉の木はまるで電信柱のように滑らかな円柱をなしているだけでろくろく隠れる場所さえ見つからない。
消えたのだろうか。俺の眼の錯覚だったのだろうか。表の方では先ほどまで気づかなかった杭を打つ槌の音やなにやら指示をして回る若い男の声が響き渡っている。その中に聡の声がいくつかはいっているのもよく判る。
俺は自棄になって脱ぎ捨てたサンダルを手に持ったまま、もと来た道を引き返した。
俺は天井を見つめていた。目の前には聡が新聞の経済欄に蛍光ペンでなにやら書き込みをしていた。武は相変わらず俺を迎え入れたときの表情そのままに呆けたように椅子に腰掛けている。昨日は気づかなかったが、その膝の上に丸い玉のようなものを抱えてそれをいとしげに撫でながらたまに俺と聡の方を軽く眺める。
「何か気に入らないことがあったのか?あの部屋が嫌だったら奥の洋間でも・・・」
昨日から一言も口を利かない俺に苛立っているような口ぶりが聡の自分を取り戻したことの宣言のようにも感じられる。俺は奴に答える代わりに軽く右手を振って、立ち上がろうとする。
「おい、何とか言ったらどうだ。気に入らないなら気に入らないって。確かに順番から言えば今度の祭りを仕切るのは当然だけれど、やっぱり祭りは・・・、よう・・・地元に」
俺が椅子に座ると同時に急に聡の表情が硬くなり、言葉がすべて口元に吸い込まれていく。そんな姿を見ていると、聡の誤解を解く気なんかは急に失せ果てて、このまま不機嫌な面を装うことを硬く決めてしまいたくなる。
「祭り、かなり今回は派手にやるんだな」
俺はテーブルの上に置かれた新品のピースの箱を開けながらつぶやいた。聡は少しばかり眉をひそめたあと、無理に平静を装いながら言葉を切り出そうとしてみたが、どうにも喉の奥で慣れない緊張と無意味な虚勢とがせめぎあっているようで、声にならないうなり声だけが俺の心の中に響いた。俺はわざともったいつけて手にした火の付いていない煙草を手の上で転がした。聡はその姿をしばらく呆然と眺めていたが、すぐに気を取り直して机の上に置かれたジッポで俺の煙草に火をつけた。俺はその煙を胸いっぱいに吸い込みながら、誰も手をつけたことがないだろう灰皿に手を伸ばし、気短にその上にわずかな灰を転がした。
「明日になればわかるよ」
下を向いたまま、久々に浮かんだ気の利いた台詞回しをかみ殺しながら聡は部屋を飛び出していった。俺は満足して灰皿に手を伸ばして得意げに煙草をふかして見せた。やけに苦く感じるのは、きついニコチンのせいだろうか。それとも慣れない虚勢のせいだろうか。奴の前でガキ大将面を平然とできるような年は、もうとうに通り越していることぐらい俺自身が一番良く知っている。教壇に立って、人の話を聞くという能力を少しも持とうと思わない連中に、切り刻まれた不恰好な古典の文句を繰り返し話してばかりいる年月が、俺のかつてのような無邪気な大将の座から引き摺り下ろしてしまっていることなど、聡以外のものならすぐにでもわかるだろう。