鳥のいる風景
手を軽くぶらぶらさせて、ニコチンの切れ掛かった頭に軽い刺激を与えながらタバコを吸う場所を探している俺の目の前に妙な人影があった。それが先ほどの武であると分かるだけに、それが祖母の真似をしているとわかる武だけに、それはいっそう奇妙に見えた。
便所から出てきたようで、水の滴る手を薄汚いジャージでいかにも面倒そうに拭いながら軽く右を向き左を向く。そのあいだ、何回か俺の姿は視界に入った筈なのだが、まるで見えていないかのようにゆっくり伸びをすると伸びていた背筋を緩やかに丸め、下を向き、上を向き、正面を向き、もう一度上を向き、そしてジャージのズボンに引っ掛けてあるタオルで申し訳程度に手を拭いてそのまま廊下を奥の部屋に向けて歩き始めた。その姿は、ちょうど今くらいの時間、祖母がしていたことと寸分たがわぬ動作だった。違うことと言えば、その足元が年の分だけしっかりしているくらいのものだろう。もしこの姿を知らない人が見たならば、それが二十八の青年であることなどきっと気づかないほどにその動作は衰えていた。
俺はその姿を見ただけで、少しばかり重荷になっていた尿意も消え去り、奥にある和室へと、かつて祖母が使っていたその部屋へと、今まさに武が消えていった引き戸の中へとその意識を集中させていった。無理に押し曲げられた腰、作り物じみた頭は必死になって引き戸の取っ手を探している振りをしている。長年狂気を装う技術ばかり磨いている生徒達を相手にしているうちに見につけた勘が武の行動を解体して、俺の手の上に広げて見せた。そして俺はその後姿に付き従って、部屋の中へと入り込んだ。
武は驚く風でもなく俺を迎え入れた。部屋の中は祖母が生きていたときそのままに、少し古びた箪笥も、経文の置かれた文机も、磨き上げられた仏壇も、残忍な夏の日差しから隠されたまま静かに佇んでいた。
「けん・・・いち」
呼びかけているのか、自分の心の中で確認しているのか。どちらかと言えば後者のような気がしてならない。文机の前に置かれた座布団に何気なく腰掛けている武は、部屋に入る時のあの衰えた目つきで俺を見つめた。俺は黙ってその前に腰を下ろすと、ぞんざいに胡坐をかいた。武は黙ったまま俺を見つめ、俺も口を開くことを忘れて奴の有様を観察した。物まねとしてはなかなか大したものだ。しかし、いったい何のためにそんな行動をとるのか。俺はそのわけを知っているのかもしれないが、俺の心の表面にある何かが、それを口に出すことを意地になって妨害しているようで、俺は結論を口にできないままでいた。
「けんいちよ。おめえ・・・よく来たな」
無理につくられたしわがれ声が、重く心のそこに響いているように感じる。
「ああ、帰ってきたよ。夏休みがあるのは教師の特権だからな。それにしても武・・・」
武は俺の言葉をさえぎるように手を翳すと、何気なく首を左右に振り言葉を捜すように天井を見つめた。俺も釣られてその天井をみつめた。何百年という年月に燻された天井には黒いシミが丸く浮きあがって見える。俺の背中に寒気が走り始めた。それは背中から脳髄へと回り、顔の表面に奇妙な愛想笑いを形作るとそのままそこに張り付くことを決めたようだ。
「なんかつかれてんのか、ここととうきょうはきょりがあるかんな。かおがあおいぞ。まるでやまがみにでもあったみてえだぞ」
久しぶりに聞く言葉に、俺は昔話の一節を思い出した。昔、祖母が東京の家に帰るのを嫌がる俺に向かって何度と無くした山神の話。手が二十本ある大猿、尻尾が九本ある狸、首が七本ある熊。話す度に姿を変えていく化け物は、ませた俺には理解の外にある迷信でしかなかった。むしろその後に続く、出会った者の味わう地獄のような苦しみの物語の方が、まるでワイドショーのゴシップを聞くような不愉快な気分に俺を陥れたことだけが、俺の記憶の中に残っている。
俺の目の前にいる武も、きっと同じような話を聞かされたことだろう。恐怖に慄く口元は、その観察の結果だろうか。そんな皮肉な感覚が、引き延ばされていく沈黙の中で次第にかつて祖母が本気で味わったであろう恐怖の渦の中に引き込まれていくようになったのは、もう一度あの奇妙な叫び声が響き渡ったせいかもしれない。俺は思わず立ち上がって左右を見渡し、そのような声が聞こえるはずもないことを確認した後、今度こそ武の言うことを聞き逃すまいと思って、今度は正座をして奴の前に座りなおした。
「なんでそんなおどろいたかおするんだ。まあとかいもんのけんいちに、やまがみがすがたなんぞあらわすわけねえよ」
俺の見た物。山神、名前を与えられて安心するわけでもなく、むしろ名前を与えられたが故にその奇妙な生き物の陰が俺の頭の中で跳ね回りはじめる。
俺が武のいる部屋を出る決心がついたのは時間とすれば五分くらいの間のことだったかもしれないが、俺には半日くらいの長さに感じられた。俺はそのまま部屋に閉じこもると、気だるい皺を浮かべるベッドへ転がった。
目を向ける先、そこには天井があった。ベッドの上に乗って手を伸ばしたとしても、きっとそこには手が届かないだろう。こんな馬鹿げたことを考えるのは本当に久しぶりのことだ。それより先に物を考えると言うことすら久しくしていない気がする。テストの問題を選ぶのも、設問に多少ひねりを加えて生徒の青い顔を想像することも、すべては周りの同僚達の受け売りのプログラム、俺が特にその主体である必要なんて何も無い。
しかしあの鳥を見て、そしてあの武に会った俺は天井に浮かんだ木目すらまるでなにかの意味を持って俺に語りかけてくるように見える。たぶん気のせいだ、いや俺が疲れていると言う証拠以外の何者でもない。少なくとも俺以外の人間がこうしてぼんやりと天井を見ている俺を見つければ、そう考えるだろう。俺もそのことを否定はしない。しかし、そんな他人のおしゃべりが今の俺にとって何になると言うのだ。確かに俺は鳥を見た。そして祖母のような従弟に出会い、こうして天井を見つめている。こういう在り方以外に俺はどうあれば良いと言うのだ。
朝があった。人はどうだかしらないが、何一つとして新しさのない朝がそこにはあった。部屋を出て廊下を抜け応接間に出た。ぼんやりと居間のソファーに腰掛けて俺のほうを無言のまま見つめる聡の視線も昨日と何一つ変わることなくその怯えたような視線が俺の額の辺りをさまよっている。俺は奴のつまらなそうな瞳に嫌気が差したように部屋を出た。
朝の田舎の空気は不健康なまでに重く水分を含んで俺の目の前に重くたちこめる霧となって現れた。その中を走り抜ける音はまるで水中で聞く泡の音のようににごったまま俺の頭の中を転げまわる。気のサンダルが玉砂利を掻き分ける音、養鶏場の鶏の声、辺りの森に潜むキジバトの雄叫び。その一つ一つの絡み合いの中、俺は真っ直ぐと長屋門の下をくぐりぬけた。