鳥のいる風景
そいつは聖域の果てまで来て何を思ったのか一度だけこちらを振り向いた。
視線が合った。なぜかそう感じたのは、それまで気がつかづにいたがま口の上の澄んだ目を見つけたせいかもしれない。それはこれまで見たどんな人間の目とも違う、それだけはその時にははっきりとわかるような目だった。人を動物の位置まで引き釣り降ろすような目としか表現のしようが無い。ほんの数秒の間のことだったろう、しかし、その間俺は動く事もままならず、思いもかけない不気味な生き物の登場に気が動転しているにもかかわらず、じっとその目を見つめてそらすことはなかった。
一声、あの耳を切り裂くような叫び声を上げると鳥は木の陰を縫うように消えた。ようやく気付いたように、俺はその消え去った草むらに目をやったが、何処に行ったものか、草一つ動くことも無く、生き物の気配と呼べるようなものはみじんも残っていなかった。諦めて俺は車の方に向かって歩き出した。
車のそばまで来て軽くあたりを見回すと、相変わらず聡がご神体の前に座ってなにやら一心にその前に積み上げられた小石をいじくっている有様が目に入った。俺は無言で車の中に乗り込んで、わざと聞こえるような大きな音をたててドアを閉めた。その音に驚いたかのように急に飛び上がる聡を少し滑稽に思いながら、何事も無かったような表情を作って、目を丸くして俺を見つめて来る聡の濁った目を冷たく見返してやった。聡はそんな俺の目にあわせるかのように情けなさそうな笑いを浮かべながら車に乗り込んだ。黙りこんでいる俺を聡は不思議そうに見つめている。昔なら俺の蹴りが後頭部に飛んでもおかしくない。きっとそんなことを考えているのだろう。
車は狭い広場をゆっくりと一回転するとまたあのガタガタ道へと入り込んだ。たまに俺がバックミラーを覗こうとすると、聡の恐怖に歪んだ目が視線から消えていくようなことが何度と無くあった。そうしてだらだら坂も終わり、右手に初めてタバコ屋が視界に入ってきた。道は林道のときよりもさらに細くなり、さらにあちらこちらに止められた軽トラックのために何度と無く俺の乗った大型車の車体が大きく傾くようになった。そしてその傾く頻度が多くなるにつれて、背中にまで浮かんでいた聡の俺に対する恐怖心が少しづつ和らいでいくのがわかった。そして俺も、少しづつこのありふれた田舎の空気に体が慣れてきたのか、次第次第に昔の俺のように珍しげに朽ちかけた土蔵の白壁や、その隣にそびえる二階建てのコンクリートの住宅や、派手に塗装されたバンの後ろに貼り付けられた人気歌手のステッカーと言ったものを眺めるだけの余裕が生まれてきた。
そんな俺の視線も、大きな長屋門をくぐったところでようやく現実世界に引きずり下ろされた。隣の養鶏場から響いてくる悲しいほどに滑稽な雌鳥の声、アメリカシロヒトリの巣を幾つと無く釣り下げた桜の木、何一つ変わることの無い俺の親父の生家。
「ほら、武が座っているよ」
サイドブレーキを引きながら聡がさりげなく言う。見れば縁側に一人、若い男が所在無げに座ってお茶を飲んでいる。若さと言うものを感じさせないほどにやつれ果てていることを除けば、あれは確かに武以外の何者でもなかった。かつて祖母がそうしていたように、車から降りる俺を軽く一瞥して、頭を下げて申し訳程度の笑顔を浮かべると、また自分の前に置いてある湯飲みをまじまじと見つめ、何事も起こらなかったかのようにそれを啜った。
「いつもああなのか、武の奴」
「武の奴、お婆ちゃん子だったから。帰ってきてから、いつだってあんな感じで座って、周りの人が何を言っても知らないふりをしているんだ。まあ、大人しくしていてくれるだけ、こっちも助かるけどね」
そう言って笑う聡の表情に尋常ならざるものを感じながら、俺は聡の差し出す荷物を受け取ると引き戸を開けて家に上がりこんだ。
家の中は閑散としていた。たぶん昔のこの家の有様を知っているだけにそう思えるのだろう。玄関に置かれた鷹の剥製。かつてこれは武の悪戯の格好の標的だった。俺が最後に見た時には、紫色の鉢巻と、おもちゃのサングラスが取り付けられていたが、今ではただ聡の虚栄の象徴以外の何の意味も持っていないようだった。真っ直ぐに延びる廊下も、塵一つなく、壁一面に貼り付けられていた車とバイクのポスターもすべて剥がされたばかりでなく、画鋲の跡までみごとに消えていた。
そして何よりも、家中あくまで静まり返っていることが妙に不自然に感じられた。かつてなら三番目のドアの向こうから、不必要な音量で流れていた筈のロックのビートも聞こえない。聡はまさにその扉の前に来たところで俺を追い抜き、ドアを軽く押し開けた。
「ここを使ってくれ。しばらく使ってなかったから汚いかもしれないけど、まあ自由にしていいから」
そう言った聡の言葉が自信を持っているように感じられたので、俺はすばやくその部屋の中に入り込んで、聡が入り込む前にドアを思い切り閉めた。
抜け殻のように閑散としているはずの部屋が、不思議に息苦しく狭苦しく見える。壁はすっかり塗り替えられ、ありふれた応接セットと巨大なベッドが置かれたその部屋も、俺にしてみればきわめて場違いで不釣合いなものに感じられた。あの武が使っていた頃の垢抜けた野生というものはそこには微塵も残ってはいなかった。
ドアが開いて、若い女が入ってきた。真っ直ぐにテーブルのところまで来て頭を軽く下げ、盆の上の茶をそっと置いた時、初めてそれが今の聡の妻となった真由美だとわかって少しばかり気恥ずかしく思った。俺が三十三だからもう三十になるわけだ。昔と比べると少し痩せたように見えるが、細く切れ込んだ眦と、その意志の強さとやさしさを無理もなく表現してみせる口元は少しも変わることはなく、俺が「若い女」と思い込んだのも無理もないようにそのきめの細かい肌は蒸し暑い空気の中、淡く反射しながら俺の視界の奥底にある甘い思い出を緩やかに解凍し始めた。
「そんな気を使わなくてもいいよ、それほど長くいるわけにはいかないけど。それとこれがお土産、時間がなかったから地元の駅で買ったんだけど、見本を見たら、こいつがなかなかうまそうに見えたから・・・」
「そうですか・・・、それはまた結構な物を・・・」
馬鹿話をして間を持たそうとする俺の安っぽい視線が真由美の黒い瞳と初めてであったとき、まるで下女でも見るような突き放された気分だけがそこに残っていた。彼女は俺の手にあるカステラの入った箱を持つと、入ってきた時と同じように音もたてずに木目調のドアに消えていった。俺はそのまま用意されていた馬鹿話を飲み込みつつ荷物を部屋の隅に押しのけた。
久しぶりの墓参りがこんなことになるとは思わなかっただけに、俺は少なからず動揺する自分をあざ笑ってみた。狭苦しい部屋に一人で座っていることは今の俺にとって、あの駅を降りてからの俺にとって、また、あの奇妙な鳥を見た後の俺にとっては苦痛以外の何者でもない。俺はドアを開け、廊下をゆっくりと下り、裏口の通路まで来た。