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鳥のいる風景

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 名札を見ていなかった俺はそのまま黙って空を見上げていた。七月末、悪意のこもった夏の日差しが、汗をかくのをやめた俺の肌を咎めるように突き刺さってくる。聡にも同じように日差しは照りつけているはずだというのに、奴はまるで真冬の冷気に耐えているかのように首をすぼめ、ハンドルに覆いかぶさるようにして車を走らせていく。
「そういえば武はどうしたんだ。高校出てすぐ家出したって聞いたけど、あれから何も言ってこないのか」 
 ふと無意識にこぼれ出た言葉が、妙に厭らしい香りを持って俺の口の中で反響する。聡の丸められていた背中が一瞬垂直に伸び、バックミラーに曇りきった奴の目玉が落ち着きも無くさまよっている様が映し出される。俺は少しばかり後悔しながら、それでもかすかに残った好奇心を顔一杯に引き延ばして、奴の一見冷酷そうにも見える薄すぎる唇からこぼれだすであろう言葉を待ち受けた。
「あいつなら・・・、この前ひょっこり帰ってきたよ。何かずいぶん苦労したみたいで・・・、まあしかたないかもしれないけど。態度も物腰もずいぶん変わって、昔は僕の事兄貴だと思っていないような・・・、そんな奴だったけど、大人しく、かなり大人しくなったね。昔からガキのような奴だったからね。まあ世の中見て、世の中がどういうものだかよく見てきて、一皮むけた、たぶんそんなところだろうね」 
 途切れ途切れにつぶやく、口元に浮かぶ微笑が、俺を昔の記憶の中にたたき落とした。いつも人の不幸を笑う時に奴が愛用したその表情。得意げに話す口元から、時折その笑みがこぼれる。俺はバックミラーに魅入られた視線を無理やり引き剥がした。車は平地を抜け、森に包まれた林道に入った。聡は手元のボタンを操作して窓ガラスを閉めた。エアコンの吹き出し口から熱風が顔面めがけて吹きつけてくる。体は少しでも涼しい空気を求めて全身の毛根から粘り気のある汗を吹き上げる。さらに悪い事に車内に滞留していた砂がこびり付いて人の神経を苛立たせる。俺は胸のポケットに手をやってタバコのあることを確認し、ようやく気を落ち着ける。
「後、少しするとクーラー効きはじめると思うよ。夏だからね、何しろ。まあ、暑いけど、それまではどうにか我慢してくれよ」 
 聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先程の饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。相変わらず悪い道が続いている。俺はどうする事もできずに車に揺られて外を見ていた。俺の目に映るのは風景といえないような風景、意識もぼんやりとして見るという行為をする事だけに集中している。
 日差しが絶え、次第に効きはじめるクーラーの冷気に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる衝撃、聡の子守唄のような独り言。しかしなぜだろう、そういう時に限ってきまぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然に遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡の濁った目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
「疲れているのか。高校の先生って、結構大変だって言うね。最近じゃあ予備校の真似みたいに特設授業とか、健一のところは確か進学校だから・・・」 
「馬鹿だな。俺がそんなこと真面目にするわけねえじゃないか。四時間も列車に乗れば疲れもするし眠くもなるよ」 
 いつもの受け答え、慣れた唇はいつもと同じ調子でいつもと同じ台詞を並べる。聡はハンドルを切って未舗装の小道に車を乗り入れた。前輪が軽く跳ね上がり、タイヤが小石を撒き散らす音が足元に響き渡る。その嫌味な木々の続く林を走る車のエンジン音が次第に遠慮がちになり、我が物顔でのさばっていた下草が力を失い、目の前に小さな広場を見つけたところで聡はエンジンを切った。しかし目の前には大人一人で持ち上げるには少し大きすぎると言った程度の石に注連縄を巻いた程度のご神体らしきものがあるだけで、これから始まるこの地方唯一の祭りの始まりを示すようなものは何一つ無かった。俺は何気なくドアを押し開け、軽く伸びをすると肌に絡みつく粘り気を含んだ風に顔をしかめて見せた。そして、車から降りたもののいかにも自信なげに車のドアのそばで立ちすくんでいる聡に向かってわざとらしく微笑んで見せた。
「いや・・・、確かにここでいいはずなんだよ。前に案内してもらったときもちゃんとあの石が正面にあったし、周りの下草だって青年団の連中に刈らせてこれだけきれいにしてあるんだから・・・、そうだ、それに確かここでやるのは最後のなんとかっていう儀式だけで、それにはうちの人間と神社の連中しかでないはずだからこれだけの広さがあればどうにかなる筈だと思うよ」 
「筈だ、筈だってお前の土地なんだろここら辺一体は、それにしちゃあ随分自信なさそうに言うじゃないか。テメエが仕切ってるんだからもう少しははっきりと・・・」 
 そんな俺の話を無視するように聡はまっすぐにご神体に向かって歩き始めた。そしてその三メートルほど手前の所に立って中腰になり、なにやら観察を始めた。首を左右に捻り、手を軽く拡げて見せ、何度かまるで写真の構図を決めるときのようなポーズを取った後、もう一度立ち上がって軽く左右に歩き回る。俺は俺でこの人工的な聖域の有様を観察すべく、限りなく続くブナの林に足を踏み入れた。この広場の周囲二十メートル程までは完全に草と言う草は刈られ、貪欲に張り巡らされた巨木達の根が或いは絡み、或いは突き出し、「聖域」の周辺部を廻ろうとしている俺の行く手を遮ってみせる。そのため俺は、彼らの自慢の枝ぶりなんぞに目を奪われることもなく、淡々と歩く事ができた。そして一際大きな欅の木の雨露が目に入ったとき、なにやらその中に動くものを見つける事ができたのも、きっとそんな事が原因していたのかもしれない。
 それはまるで団子かなにかのように大木に開かれた深淵の中に供えられていた。俺の足音に驚いたのか軽くその身を震わせたとき、俺は狸かなにかが木の中で眠っているのかと思って、足を忍ばせ近づいてみた。そいつはその気配を察してはいるがどうしたのもかと思案しているのか、同じ様な調子で体を揺すりながらじっとその場に蹲っていた。近づくに従って、その洞穴に住む毛玉の黒褐色の光が獣の毛皮の光とは違う何処かしら乾燥した雰囲気をたたえていることに気付いて俺は足を止めた。俺は何気なく近づく速度を速めた。まさにその時だった。
 その毛玉の中央部が真っ二つに裂け、その中央に真っ赤な口が開かれた。人面鳥(ハーピー)の叫びにも似た背筋の凍るような叫び声が俺の耳に向かって突進してきた。俺はそのまま足を滑らせ、ふくらはぎを木の根に嫌と言うほど打ち付けた。その音に気をよくしたようにもう一度、その悲鳴は俺の耳元を掠めて後ろの森へとばら撒かれ、鳥は勢いにまかせて洞穴から転がり落ちる。逃げるのか、俺を誘っているのか、判断に迷うような足どりでそいつは草むらに消えていこうとする。俺はその後をつけようと足に力を入れるのだが、踏ん張った調子に靴の踵が木の根の間に挟まっている事に気付いてようやく思いとどまる。
作品名:鳥のいる風景 作家名:橋本 直