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 無言のままで引き上げる女の足音が、急に響き始めた後ろの大学生達の歌声でかき消される。振り上げられる力のない拳、踏み鳴らされるのは力の抜けるようなリズム、ずり落ちかけた眼鏡の中途半端に開かれた眼。
 そのうちの一人、壁際で青ざめたその頬をしきりと拭いながら、意味もなく左腕の高そうな時計を赤い眼で覗き込んでいる男。残りの連中の顔色を覗いながら目の前にあった泡のほとんど消えかけたビールをあおる。よろけながら立ち上がり、隣の眼鏡をかけたぼんやりとした男を押しのけようと身を翻そうとした。しかし、鈍りきった彼の神経は、どこをどう間違えたのか、その左腕をビール瓶の首に叩きつけるという奇妙な選択をする事になった。
 男の左腕に瓶の首がめりこみ、遮断機のように飴色の瓶が油にまみれた取り皿にもたれかかる。しかし、取り皿は丸みを帯びたビール瓶の肩に跳ね飛ばされテーブルの中央に逃げ去った。相方を失った色黒の道化は、舞台の上で何度か地団駄を踏んだ後、気が変わったようにテーブルの縁に向かった。呆然とその有様を見ていた長髪の若造も男達もようやく瓶の目的に気付いたようで、今度は仕事にあぶれていた右腕で縁の出っ張りのために行く手を遮られていた自殺願望の持ち主の望みに手を貸してやった。眼鏡の男が持ち前のぼんやりをかなぐり捨てて救いの手を差し伸べた頃には、ビール瓶の床に向かってのダイブは完成して、床に刺々しい死体を残しているだけだった。
「割っちまった」
 四人の動きが一瞬止まる。ぼんやりと突き出しを突いている俺の視線を一瞬掠めた、長髪の男の死にかけた赤い眼。俺は眼を背ける。ガソリンのような臭みを放つ酒を運んできた赤い髪の女は慣れた足どりで店の奥から箒を持ってきて、泡にまみれた床を掃き始める。
 無口な店の主人は何も言わずに肉じゃがを一つ付けてくれた。俺は肉じゃがを突きながら黙って酒をあおった。後ろでは何事も無かったように饗宴が再開された。俺は時を忘れる為に杯を進めた。
「佐々木さん。済まないね、看板にさせてもらうよ」 
 親父が肩を叩いたのは大学生が店を出たことすら忘れたような頃だった。俺はポケットから、夕方最後に俺の勤めている店で手にした給料の入った袋を取り出した。二千二百七十円、店の勘定は千五十円。残りは千二十円。ふらつく足を大地に突き立てながらようやく平衡を保つ俺の身体は、自然と駅のほうへと向かっていた。
 終電の終わった駅のホームには酔っ払いの影すらなく、不気味な薄笑いを浮かべながら沈黙していた。俺はシャッターの閉まった駅の改札口を横目で見ながら、線路の下を潜り抜け、煌々と明かりのついた交番の前を通り、自動販売機の前にやって来ていた。ズボンのポケットからさっきのお釣りを取り出して、手の上で転がしてみる。それにしてもなんて軽いんだろう。郵便局にはもう少し金があるはずだが、そんなことはあてにならない。今の俺にとってはこの金が重要なんだ。そういえば似たような事がドストエフスキーの小説にもあった気がする。まあ、もう少しましな台詞だったような気がするが。
 俺は手の上の小銭を投入口に差し込んだ。軽薄な音を立てながら、俺の手から機械の中へと小銭は消えていった。気味の悪い赤い光に魅入られた俺の人差し指がゆっくりとコーヒーのボタンを選んで押した。無様な音を立てて転がってくる缶コーヒーを腰を曲げて右手で握りしめ、その熱さに驚きながら、ハンカチでくるみなおして持ち上げ、左手で熱さを気にしながらプルタブを引き上げる。おもむろに飲み込んだ熱い液体は俺の口ばかりでなく頬までも流れ下ることを嫌わないようだった。俺は手にかかったコーヒーを何の気なしに皺だらけのズボンで拭いながら、道路につきあってまっすぐ整列している電柱にくくりつけられたやる気の無い街灯の光の線を見つめ、この先はたしか川に続いていたはずだと言う事を考えていた。
 夕方だったらさぞ人通りも多い事だろう、取り残された放置自転車の群れが昼の喧騒を暗示している。街灯の下には、まるで条例で決められているかのように異臭をはなつ白い吐捨物が光に晒されて浮き上がって見える。本屋の隣、スナックの看板の隣、花屋の隣、吐捨物の点線はいつまでと無く続いていた。俺は次こそは俺の胃の中を整理してみようと口に指を突っ込んだまま、白い吐捨物を目印に緩やかに下っていく道を歩き続けた。
 細い小道の影、数え始めて十三個目の白い円盤が眼に入ったとき、その位置が少しおかしいことを気にしながらも俺の胃はついに限界に達して、俺は酒の自動販売機の隣に置かれた空き缶入れの中に少し黄色みがかった物を吐き出していた。一度開かれた食道は、次々と外へ向かう酸味を帯びた群衆で埋まり、自分でも一体なにをしているのか忘れそうになったその時、俺の背中に妙な粘液質の視線が走るのを感じた。
 俺は胃の中のものを吐き出した余韻に浸りながら、軽くその視線の光を覗いた。白く光っていたのは白いボールのような物だった。そのボールには二つの眼のようなものが貼り付けてあり、低く潰れた鼻がその下でうなり声を上げながら座っている。その下に開かれた口は薄く開かれているのだが、それが笑っているのか泣いているのか、吐くと言うことに力を使い果たした俺の脳には判定しかねた。俺の眼に気付いたのか、坊主は蕎麦屋の看板に引っ掛けてあった饅頭笠を被り直して軽く身仕舞いをするとそのまま俺の進むべき道を少し足早に歩き始めた。
 自分の見たものの正体に安心してゆっくりと手に付いた吐捨物をハンカチで拭い、その僧の後姿を見送っていた。ここから息を吹きかければそのままふらふらと舞い上がるようにも、助走を付けて体当たりしても跳ね飛ばされるようにも見えるような不思議なその歩みにひきつけられて、視界から消えようとする僧を追いかけ始めていた。
 次第に道沿いの店が途切れ、自動販売機の数も減り、転がる自転車も数えるほどになり、突き刺さるような静けさに俺の足の歩みが遅くなっていくのに、乞食坊主は錫杖を突き立てながら、まるで俺を引きずり回して楽しんでいるかのように歩む。俺は電柱の影に身を隠して探偵を気取りながら、黒い饅頭笠を目印にして川に向かう道を千鳥足で下っていく。
 目の前に立ちふさがる黒い壁。堤防の影に饅頭笠が吸い込まれた。俺は不安になって街灯の下に乞食坊主の姿を探した。どこに隠れたのか、人影はおろか猫の子一匹見当たらない。そのまますることもなく歩き回っているうちに進入禁止の道路標識の影、堤防に登る階段を見つけた。月の光は黒い筋を浮き上がらせ、堤防を登る階段に俺を誘う。きっとこの階段を使ったのだろう。俺はそう直感して、勢いに任せて急な堤防の階段を駆け上がった。堤防の上は湿った海からの風が絶えることなく吹き続けている。川原に広がる運動場の周りに生える葦がそれになびいて俺に頭を下げる。緩やかに続く堤防の勾配を下り、そのまま運動場の上を歩いた。こんなもの何の為にあるのだろう、少なくともこうして酔い覚ましの散歩の為にあるわけじゃないだろう。月の光に照らされた水面が、蛍光灯の破片のように細かく危うい光を俺に向かって浴びせかけてくる。
作品名: 作家名:橋本 直