月
そんな光を避けるように思わず天を仰いだ。見ると言うわけでもなく頭の上に輝く無様なほどに丸い月が目に入ってきた。何だってこんなに丸いんだろう?何だってこんなに光っているんだろう?死に掛けた街の残りかすのような光にかすんだ星達の恨みを晴らすかのように、鼻の頭に現れた笑いが顔から腹へ瞬時に伝わっていくのを感じた。そのまま転げまわって笑えたとしたらどんなにか気持ちの晴れることだろう。
急に気が楽になって俺はどこかの暇人が堤防の上に等間隔で並べた空き缶を一つ一つ見苦しいほどに透明な光を放つ川に向かって蹴りこんだ。アルミでできた軟弱な缶はどれもこれも人を呆れさせるような間の抜けた音を立てると放物線を描きながら、散り散りになった月の光の中に消えていった。
そして、最後に透明なガラス瓶を蹴ったときだった。それまでの感覚を一瞬失ったように、俺の足はその瓶の口を叩くにとどまり、瓶は真下に転がって砕ける。目標を失った足は水分の多い空間を切り裂き、俺の股関節を何者も存在しない空間へと引きずれ込まれていった。腰骨に軽い痛みが走り、荒く風化したコンクリートに体が叩きつけられたことが判る。軽く手足を動かして俺は重力への無駄な抵抗をする。しかしそれが一体何になるのだろうか。俺の体は黒く輝く水面に吸い込まれていた。
粘り気のある水。体に絡み付いてくるその触手は別に俺をその奥へ引きずり込むつもりなど毛頭ないようで、俺の左足がさび付いた感触をした鉄の梯子に引っかかる。頭からは水が滴り落ちる。そう簡単に人間が死ねるものか、思わず零れ落ちた苦笑いで水面に目玉の形の波紋が浮き上がった。目玉の形は果てしなく続き、今でもこうして俺の周りに広がっている。目の前を歩く二人連れが俺を指差して、不快そうな顔をして足早に通り過ぎる。あの時以来、俺の右腕はろくに動きもしない。襤褸屑と大して違いのないようなジャケットに浮かび上がるシミ、あの川の水の染み付いた靴下。俺はこうしてここにいる。そして俺の目の前は商店街に置かれたビデオカメラのように移り変わる広場の風景をただ映し出している。
噴水の影の黒い固まり。あれは一体何なんだろう。急に不安になって目を凝らそうとする。人のようにも見えるその固まりの姿をゆっくりとなぞっているうちに、それが笠のようなものを被っているのが判ってきた。あの手に持っている杖のようなものは錫杖だろうか。
急にその笠が持ち上げられ、丸い顔が俺の目にも見えるようになった。よく見えないがあの鈍く光る目は、影でわからないが潰れかけた鼻は、髭に隠れてはいるがあの開かれた口は、俺の頭の中の部品が一つ一つあるべき場所を手に入れて、喜びに沸き立っているのが判る。だからといって俺に何ができるんだろう。俺はもはや歩く事すらできやしない。なにかを投げつけようにも、俺の腹の上の新聞紙が俺の全財産だ。せめてこうして睨み返すことくらいしか・・・、俺はそのとき初めて坊主の顔を顔として眺めた。街灯の光が笠で遮られているせいが、やたらと色黒に見えるがたぶんその黒さの相当部分は肌の上に積もった垢のなせる業だろう。時折、頭や背中を左右両手を使って掻きまくっているのが何よりの証拠だ。
襤褸雑巾のように、何一つ身構えているようには見えないその姿が、なぜこれ程までに俺には美しく見えるのであろうか。そう思った瞬間だった。
視線の中の坊主の指先が天を指さしていることに気付いた。左手で笠を持ち上げてまるで月かなにかを見上げているみたいに・・・、そうだ月だ。俺は最後の力を振り絞ってビルの谷間の狭い空を見上げた。
雲一つ無く晴れ上がった空に、ただ、月が一つ、他の星の光の恨みを晴らすかのように、おぼろに輝いてみせる。いつもならその光をかすめとって化粧してみせるスモッグの粒子も、この強い風に洗い流され、ただ真円をなす黄色い円盤がその自己顕示欲の強さを人が呆れるのもかまわずに黄色い光を垂れ流し続けていた。
だからなんだって言うんだ。
一人のコートを着た女。俺の前を相変わらず俺に軽蔑の視線を浴びせながら通り過ぎようとする。俺から三メートルくらいの距離を正確に取りながら俺を避けて通ろうというのだろう。女が俺と噴水の中間点に立ったときだった。俺の懐から十円玉がこぼれ落ちた。かつて、俺が酒屋の親父のごつい作りの手から受け取ったぴかぴか光っていた十円玉。今では俺と同じく、黒いシミを浮かべた十円玉がころころと俺の膝を伝って、コンクリートの上に滑り落ちた。
その軽薄な響きが俺の右耳から左耳へ通り過ぎるのと女の膝まであるブーツの上の辺りが不自然な曲がり方をしたのはほぼ同時に見えた。女はそのまま気でも失ったようにガクリと膝を折って大地に突っ伏した。
女の身体はまるでガラス細工か何かのように大地に当たって粉々に砕け散っていた。それが合図だったのだろうか、公園一杯の人影が次々とまるで機関銃の掃射でも受けたみたいにして、大地に倒れこみ始めた。彼らは地面にいとおしそうに接吻を済ませると粉々になって土に帰っていった。コートの袖を意味ありげに引っ張り上げながら信号を待っていた四十そこそこの眼鏡のサラリーマンも、革ジャンの襟から赤いTシャツをはみ出させながら小走りに走り抜けようとしていた大学生も、浮ついた笑いで寒さを紛らわしながら会社の噂話に花を咲かせていたOLも、膝から、踝から、腕から。透明な粉を撒き散らしながら時を惜しむように次々と壊れていった。
人間が一通り崩れ終わった時、崩壊は物へと伝染し始めた。ビルも、車も、街灯も、電柱も。俺の視界の中のありとあらゆるものが、ガラスの割れるような耳障りな音を立てて、一つ一つ丁寧に形を失っていく。俺の目の前の噴水も、一瞬凍てついたように見えた後、ビルとその崩れる早さを競っているかのように粉々に砕け散った。
視界にあったものが砕け終わった後、不意に肩が軽くなったような感じがしたので足元を見下ろしてみると、新聞紙の破片が文字を中心としてジグソーパズルの破片のように崩れて行くところだった。シミだらけのジャケットが緩やかな風に吹かれてその姿を失っていく。どうやら俺って奴も砕け散ってしまったらしい。その隣の砂山はきっとそんな残骸だ。
俺はぼんやりと周りを眺めてみた。あたり一面何も無い地平線だ。軽く目を動かすようにして視界を動かしてみた、奇妙なもので、肉体などというものが失われたというのに、俺にはその時の感覚が抜けきっていないようで、丁度百二十度の視界の中ただ緩やかに弧を描いている地平線を見ると、なぜか妙に走り出したいような気になってくる。
しかし、俺はそんな衝動を押さえつけるとゆっくりと月へと浮き上がっていった。月は月で、相変わらず、にやけた光を何も無い地上にぶちまけ続けていた。