月
月
頭の中に残された、俺の手にはどうしようもない鐘を、律儀な北風が転がしている。だが、風向きをその冷たさで感じるには俺の感覚はあまりに劣化していた。もう右足と左足の区別すら出来ない有様だ。ちらちら映る目の前の空間に、灰色のコートを着て下を向いたまま、つまらなそうに道を急ぐ通勤帰りのサラリーマンが入ってきた。きっと六時を回ったんだろう。その隣では赤い顔をした学生達が植え込みの周りをくるくると回りながらはしゃいでいる。その馬鹿面の中で、ただ唇の隅に張り付いた薄ら笑いだけが意味もなく、頼りなげに、いつまでも目の隅に焼き付く。
こんなに多くの人が流れている広場で、俺のように座ってこの広場を眺めようと思うような奴はいないのだろうか。時折、何度か立ち止まる振りをする人もいるが、しばらくは俺の視界の中をさまよってみせるものの、俺のわずかな隙をついて、この広場から街の暗がりの中へと消え去っていく。
きっと奴等にはどこかしら帰る場所があるのだろう、誰もいない安アパートの一室、神経症気味の妻の待つ郊外の一軒家、駅前のビジネスホテルの棺桶のようなベッド。金にうるさい愛人の住む飾り立てられたマンション。そんな、赤の他人から見ればどうでもいいような場所にしても、帰る身になってみれば立派な行き先だ。そう当たり前すぎる結論をネジの切れ掛かった頭の中で組み立ててみては、俺の今の境遇を考え合わせて、垢にまみれた頬を引きつらせて無理のある笑いを浮かべようとしてみた。
いつからこうしていたのか、何の為にこうするようになったのか、どうしてこの広場でなければならないのか、そう言った疑問が俺の頭のどこかにいつからか隠れて住むようになっていた。そして同じ頃俺はときどき自分の視界にまでこぼれ落ちてくる、伸びすぎた前髪の一本一本に訊ねてまわるようにもなった。
「あんた、一体誰ですか」
地面と空を指して蚤が笑う。なのに俺は何一つできない、その力も無い。
ふと朝日の中でもこんな風に座っていたと言ったような曖昧な記憶が浮き上がったのは、鋭い虚構の光が俺の顔面を捉えたからだろう。耳元で爆竹でもならされたみたいに皮膚の眠りが一瞬途切れる。歩道沿いに止まったタクシーのヘッドライトの明かりだ、皮膚が退屈そうにそう答える。
俺の焦点は疲労によって固定されていた。そこには風に吹かれる度にその頭を左右に転がしては申し訳なさそうに顔色を変える噴水が、さもそこにあるのが当然と言うように突っ立っていた。青く、赤く、酒でも飲んだようにそいつは表情を変えた。どこかで見たような面、見たくもない面、もう一度見てみたい顔。風が吹くたびにそう言った顔を思い出しそうになるが、水飛沫は俺を無視して姿を変えてしまう。ただ色だけが目の奥に蓄積されていく。
青。どうも繰り返される色のパターンの中ではこの色が一番多いようだった。そう言えば俺の記憶の中ではテレビはなぜか青い色をしている。海を映しているのか、空を映しているのか、いや、何も映していないのかも知れない。ただ俺は青いテレビの画面を見ながら一人で蜜柑を剥いていた。つまりこれは俺にまだ住む場所があった頃の記憶だ。テレビはわざと音量を絞っているようで、代わりに右隣の埃にまみれて薄茶色に見える中古で友人に譲ってもらったミニコンポから、バッハのオルガン曲が流れている。その日、俺は半年勤めていた本屋のアルバイトを解雇になっていた。
この日が来る事くらい判っていた。そう思いながら、指先に溢れかえるこのイライラした気分はどうすることもできなくて、剥き終わった蜜柑を一口で口に入れて思い切り噛み締めてみた。歯に種が当たるのを感じた。そのまま思い切り噛み潰して、口いっぱいに脂ぎった苦味が広がっていくのと同時に指先に固まっていた灰のような感情の残り滓がゆっくりと血管を通して身体全体に拡散していくように感じられた。俺は思わず顔をしかめながら、テーブルの上に転がる蜜柑の皮から目を逸らした。
薄暗がりの部屋の中の空気はどんよりと、俺の目は何処へともなく部屋の中を転がっている。カーテンの無いアパートの窓からこぼれる月の光、俺の目は特別な理由もなしにその姿に吸収されていった。限りなく真円に近い黄色い月。なんだ、満月なのか。そういえばもうすぐ中秋の名月じゃないか。そんなことに気付くのはもう何ヶ月ぶりだろうか。俺は万年炬燵から飛び起きると、シミだらけの窓ガラスを押し開けた。目の前に続くちっぽけなアパートの群、その遥か向こう側に広がる工業地帯からの赤黒い光にかすんで、星一つ見えない空。その上に月は静かにぶら下がっていた。月の光はまるで蛍光灯のように満遍なく眼下に広がる街を照らしている。その下に広がるどうしようもない街は墓石のように静かな光を放ちながら、俺のほうをいかにも申し訳なさそうにぼんやりと眺めている。俺は気分を変えようとして万年炬燵に潜り込んだ。暗闇以外の物は何も見たくない、そう思った。
CDの音が途切れた。手元のリモコンを使ってテレビの電源を切り、電灯のスイッチの紐に結びつけた紐を引いて部屋を暗くした。それまで猫を被っていた街の光が、急にその正体を顕したように部屋の中一杯に広がっていつまでと無く続く光の輪を作り始める。どこまでそいつ等は俺を追って来れば気が済むのだろうか。どうせ逃げられないのなら・・・醒めたままの目玉を鎮めようと立ち上がった俺は、テレビの上に置かれた眼鏡を手に取り上げた。部屋の中は相変わらず静かな月の光が輪を描き続けている。振り返りたくなる衝動を押さえつけながら玄関へと向かい、緩みかけた靴紐を結び直す。
立てつけの悪いアルミの扉を開けて、アパートの通路に出た。街灯の不完全な光が、闇に慣れた俺の目に嗜虐的な光を浴びせてくる。俺の部屋も、その隣の部屋も主を失って沈黙の耳障りな音を立て続けている。俺はそのまま、歩く度に軽薄そうに啼く階段を下り、車も通れないような狭い路地を水溜りに気をかけながら進んでいく。昼の生気を失った道は、誰一人として振り向くもののないことを悲しんでいるかのように見えた。
電柱に掛けられた看板。歯医者、建設会社、印刷工場。置き忘れたように自動販売機が誰もない歩道の上を照らしている。そんな中を、足はあてもなく地面を捉え、意識はその上に乗って進んでいく。
俺の足は自然と駅への道をとっていた。車の途絶えた国道を渡って、専門学校の脇、電球の切れ掛かった街灯の下を進み、放置自転車の影を抜けたところ。黒く染まった商店街の目を背けたくなるようなアーケードの果てに、俺は一筋の光を見いだした。
いつも、どうしても眠気がやっえこないときに訪れる一杯飲み屋、黒く煤けた縄暖簾を潜って薄暗い店の中、親父はいつものようにカウンターの向こうでビールを注ぎながらふらつく手をしならせて器用にしし唐を串に刺している。俺はいつもどおり、一番奥の席に腰を下ろした。見かけない若い女が、突き出しと割り箸、そして冷めかけたお絞りを俺の前のカウンターに並べた。
「とりあえず、熱燗。それと揚げだし豆腐」
頭の中に残された、俺の手にはどうしようもない鐘を、律儀な北風が転がしている。だが、風向きをその冷たさで感じるには俺の感覚はあまりに劣化していた。もう右足と左足の区別すら出来ない有様だ。ちらちら映る目の前の空間に、灰色のコートを着て下を向いたまま、つまらなそうに道を急ぐ通勤帰りのサラリーマンが入ってきた。きっと六時を回ったんだろう。その隣では赤い顔をした学生達が植え込みの周りをくるくると回りながらはしゃいでいる。その馬鹿面の中で、ただ唇の隅に張り付いた薄ら笑いだけが意味もなく、頼りなげに、いつまでも目の隅に焼き付く。
こんなに多くの人が流れている広場で、俺のように座ってこの広場を眺めようと思うような奴はいないのだろうか。時折、何度か立ち止まる振りをする人もいるが、しばらくは俺の視界の中をさまよってみせるものの、俺のわずかな隙をついて、この広場から街の暗がりの中へと消え去っていく。
きっと奴等にはどこかしら帰る場所があるのだろう、誰もいない安アパートの一室、神経症気味の妻の待つ郊外の一軒家、駅前のビジネスホテルの棺桶のようなベッド。金にうるさい愛人の住む飾り立てられたマンション。そんな、赤の他人から見ればどうでもいいような場所にしても、帰る身になってみれば立派な行き先だ。そう当たり前すぎる結論をネジの切れ掛かった頭の中で組み立ててみては、俺の今の境遇を考え合わせて、垢にまみれた頬を引きつらせて無理のある笑いを浮かべようとしてみた。
いつからこうしていたのか、何の為にこうするようになったのか、どうしてこの広場でなければならないのか、そう言った疑問が俺の頭のどこかにいつからか隠れて住むようになっていた。そして同じ頃俺はときどき自分の視界にまでこぼれ落ちてくる、伸びすぎた前髪の一本一本に訊ねてまわるようにもなった。
「あんた、一体誰ですか」
地面と空を指して蚤が笑う。なのに俺は何一つできない、その力も無い。
ふと朝日の中でもこんな風に座っていたと言ったような曖昧な記憶が浮き上がったのは、鋭い虚構の光が俺の顔面を捉えたからだろう。耳元で爆竹でもならされたみたいに皮膚の眠りが一瞬途切れる。歩道沿いに止まったタクシーのヘッドライトの明かりだ、皮膚が退屈そうにそう答える。
俺の焦点は疲労によって固定されていた。そこには風に吹かれる度にその頭を左右に転がしては申し訳なさそうに顔色を変える噴水が、さもそこにあるのが当然と言うように突っ立っていた。青く、赤く、酒でも飲んだようにそいつは表情を変えた。どこかで見たような面、見たくもない面、もう一度見てみたい顔。風が吹くたびにそう言った顔を思い出しそうになるが、水飛沫は俺を無視して姿を変えてしまう。ただ色だけが目の奥に蓄積されていく。
青。どうも繰り返される色のパターンの中ではこの色が一番多いようだった。そう言えば俺の記憶の中ではテレビはなぜか青い色をしている。海を映しているのか、空を映しているのか、いや、何も映していないのかも知れない。ただ俺は青いテレビの画面を見ながら一人で蜜柑を剥いていた。つまりこれは俺にまだ住む場所があった頃の記憶だ。テレビはわざと音量を絞っているようで、代わりに右隣の埃にまみれて薄茶色に見える中古で友人に譲ってもらったミニコンポから、バッハのオルガン曲が流れている。その日、俺は半年勤めていた本屋のアルバイトを解雇になっていた。
この日が来る事くらい判っていた。そう思いながら、指先に溢れかえるこのイライラした気分はどうすることもできなくて、剥き終わった蜜柑を一口で口に入れて思い切り噛み締めてみた。歯に種が当たるのを感じた。そのまま思い切り噛み潰して、口いっぱいに脂ぎった苦味が広がっていくのと同時に指先に固まっていた灰のような感情の残り滓がゆっくりと血管を通して身体全体に拡散していくように感じられた。俺は思わず顔をしかめながら、テーブルの上に転がる蜜柑の皮から目を逸らした。
薄暗がりの部屋の中の空気はどんよりと、俺の目は何処へともなく部屋の中を転がっている。カーテンの無いアパートの窓からこぼれる月の光、俺の目は特別な理由もなしにその姿に吸収されていった。限りなく真円に近い黄色い月。なんだ、満月なのか。そういえばもうすぐ中秋の名月じゃないか。そんなことに気付くのはもう何ヶ月ぶりだろうか。俺は万年炬燵から飛び起きると、シミだらけの窓ガラスを押し開けた。目の前に続くちっぽけなアパートの群、その遥か向こう側に広がる工業地帯からの赤黒い光にかすんで、星一つ見えない空。その上に月は静かにぶら下がっていた。月の光はまるで蛍光灯のように満遍なく眼下に広がる街を照らしている。その下に広がるどうしようもない街は墓石のように静かな光を放ちながら、俺のほうをいかにも申し訳なさそうにぼんやりと眺めている。俺は気分を変えようとして万年炬燵に潜り込んだ。暗闇以外の物は何も見たくない、そう思った。
CDの音が途切れた。手元のリモコンを使ってテレビの電源を切り、電灯のスイッチの紐に結びつけた紐を引いて部屋を暗くした。それまで猫を被っていた街の光が、急にその正体を顕したように部屋の中一杯に広がっていつまでと無く続く光の輪を作り始める。どこまでそいつ等は俺を追って来れば気が済むのだろうか。どうせ逃げられないのなら・・・醒めたままの目玉を鎮めようと立ち上がった俺は、テレビの上に置かれた眼鏡を手に取り上げた。部屋の中は相変わらず静かな月の光が輪を描き続けている。振り返りたくなる衝動を押さえつけながら玄関へと向かい、緩みかけた靴紐を結び直す。
立てつけの悪いアルミの扉を開けて、アパートの通路に出た。街灯の不完全な光が、闇に慣れた俺の目に嗜虐的な光を浴びせてくる。俺の部屋も、その隣の部屋も主を失って沈黙の耳障りな音を立て続けている。俺はそのまま、歩く度に軽薄そうに啼く階段を下り、車も通れないような狭い路地を水溜りに気をかけながら進んでいく。昼の生気を失った道は、誰一人として振り向くもののないことを悲しんでいるかのように見えた。
電柱に掛けられた看板。歯医者、建設会社、印刷工場。置き忘れたように自動販売機が誰もない歩道の上を照らしている。そんな中を、足はあてもなく地面を捉え、意識はその上に乗って進んでいく。
俺の足は自然と駅への道をとっていた。車の途絶えた国道を渡って、専門学校の脇、電球の切れ掛かった街灯の下を進み、放置自転車の影を抜けたところ。黒く染まった商店街の目を背けたくなるようなアーケードの果てに、俺は一筋の光を見いだした。
いつも、どうしても眠気がやっえこないときに訪れる一杯飲み屋、黒く煤けた縄暖簾を潜って薄暗い店の中、親父はいつものようにカウンターの向こうでビールを注ぎながらふらつく手をしならせて器用にしし唐を串に刺している。俺はいつもどおり、一番奥の席に腰を下ろした。見かけない若い女が、突き出しと割り箸、そして冷めかけたお絞りを俺の前のカウンターに並べた。
「とりあえず、熱燗。それと揚げだし豆腐」