遼州戦記 保安隊日乗
確かにタレ眼だった。笑顔を浮かべるとさらにタレ眼になる。
「虐めんなよ、要坊。それよりこいつ飲むか?」
嵯峨は一升瓶を掲げた。ぬらりと視線を一升瓶に移した要だったが、すぐそのタレ眼が輝きだした。
「これって銀鶴の純米大吟醸じゃないか!胡州でも手に入れるの大変なんだぜ!叔父貴!どこで売ってた」
「ああ、ここの店主とは西園寺家に養子に入ってからの付き合いでね。まあ年に5本くらいは贈ってもらってるよ。兄貴の所にゃあもっと送ってると思うけど。飲んだ事ないのか?」
「オヤジの野郎がそんな親切な人間に見えるか?ほとんど客が来た時、さしで飲むのがこれだから。アタシはめったに飲ませてもらえねえよ」
そう言いながら酒瓶を嘗め回すように見つめる要を気にすることなく、嵯峨は悠々とコップに酒を注いだ。
「いくら頼んでも無駄だぞ、こいつは俺と誠で飲もうと思って持ってきたんだ。そんだけ出来上がってりゃあ味も何も関係ねえだろ?消毒用のエチルでも飲んでな」
まったく取り付く島が無いとでも言うように、要の羨望の視線を尻目に悠然と酒をあおる嵯峨。
「ちょっと待て叔父貴。神前!ちょっとここに座らせろ!」
要はそう言ってベッドに腰掛ける。しばらく眼を瞑り、手のひらを閉じたり開いたり始めた。
「神前少尉、何をして……隊長!」
開けっ放しの入り口、今度はカウラが顔をのぞかせた。
「千客万来だなあ、誠。まあカウラもこっち来いや。それで要坊。アルコールは抜けたか?」
「まあな、この状態なら飲んでもいいだろ?」
体内のプラントをフル回転させてアルコールを分解させ、すっかりしらふに戻った要がまた目じりを下げながらじっと酒瓶を見つめていた。
「そうだ、要とカウラ。それに……ちょっと後ろ見てみ」
入り口で立ち止まっているカウラが言われるとおりに後ろを見た。そして誠達からも分かるような驚きの表情を見せた。
「アイシャ!なんで貴様がいる」
「それは無いんじゃない?カウラちゃん。こんな狭い艦だもの、暇つぶしに歩いてたらたまたまここを通っただけよ。それよりなんでカウラちゃんがこんなとこに……って要や隊長まで!」
長い紺色の髪をなびかせてアイシャがカウラに付き添うようにして誠の私室に入る。
「こりゃちょっとコップとか足りねえな。要坊、コップあと三つ、それにカウラ用にジュースでも買って来いや」
「何でアタシなんだ!」
「お前もこれ飲むんだろ?それにここは誠の部屋だ。つまりこいつがここの主人だ。そして階級は俺は大佐、ベルガーとクラウゼは大尉。お前は中尉。つまり上官命令って奴だ」
「分かったよ!」
そう言うと仕方ないと言ったように要は部屋を出て行った。渋々、要は席を立って部屋を出て行こうとする。
「ああそうだ。出来れば食堂でなんかつまむ物でも持ってきてくれや」
「わあったよ!叔父貴は人使いが荒いねえ」
ドアが閉まる。アイシャはベッドの脇、カウラの隣に座った。
「タレ目ですね」
誠はしみじみとした調子でつい思いついた事を口にした。
「誠。それあいつの前では言わん方がいいぞ。血を見る事になるからな」
完全に乾燥し、硬くなった干し肉を引きちぎりながら嵯峨はそう言った。
「それはそうと、何でお前等が……って言うだけ野暮か」
嵯峨は細かく千切った干し肉を口に放り込む。
「特に用があったわけじゃないですが、どうも作戦が近づいてるのが気になるみたいでちょっと声でもかけようと思って……カウラちゃんはどうして?」
話を振られて緑の髪を揺らしながらうろたえるカウラ。ポニーテールの髪がかすかに揺れているのが誠にも分かった。緑色をした澄んだ瞳が、ちらちらと誠の方に向けられる。
「まあいいやな。人のすることを一々詮索する趣味は俺にはねえよ。まあ初出撃だ。ビビらん方がよっぽど厄介だ。おかげさまで俺の部下に、英雄気取りの馬鹿はあまりお目にかかってないんでね。それに俺の軍籍のある胡州陸軍には伝統的な馬鹿矯正法があるからな」
「鉄拳制裁ですか?」
一口酒を舐める嵯峨にカウラはそう答える。
「ぶん殴って頭をはっきりさせるって言うのは、戦場で自爆どころか足を引っ張った上で勝手にくたばる運命に比べたらよっぽど人道的な配慮のある行為だよ。まあ俺は暴力は嫌いだがね」
「本当にそうなんですか?ずいぶん芝居がかって見えますが。誠ちゃんもう一杯どう?」
皮肉めいた笑みを嵯峨に向けたあと、アイシャが報告書作成のための机に置かれていたコップを手に取り酒を注いだ。
「そう言えば誠との付き合いは、俺が陸軍大学校を出て東和の大使館付き二等武官をやってたころだから……」
「隊長。そのころまだ僕は生まれてませんよ」
それは誠の実家の道場では誰もが知っている話だった。
誠の父誠也(せいや)が道場を開いて初の道場破り。酔狂なその胡州軍人の話は語り草となった。その軍人、嵯峨二等武官は誠也の竹刀をあっさり叩き落したが、誠の母、薫の徹底的に攻撃を受け流す策の前に焦って打ち込んだ面をかわされて敗れ、そのまま入門したという事も誠は聞いていた。
「そうだったっけ?ああ、そう言えば居なかったな。思い出した、思い出した。俺が復員した後、楓に家督を譲って東都で弁護士事務所を始めたころだ」
「弁護士事務所?茶道教室の間違いじゃないんですか?」
アイシャはいたずらっぽく笑う。弁護士資格を持っているのは時々聞いていたが、茶道の心得が嵯峨にあることは知らなかった。誠はいまひとつ理解できていない上官をじっと見つめた。
「仕方ねえだろ。ちゃんと裁判所には弁護士事務所で登録したんだから法律的には弁護士事務所だ。まあ実入りは茶道具の仕入れや骨董の鑑定なんかの方が多かったけどな。一応二回ほど訴訟を手がけた事もあるんだぜ」
そう言うと急に扉のほうに視線を移す嵯峨。盆の上に三つのコップと烏龍茶と豚の角煮を一皿持った要が居た。
「早かったじゃねえか。しかも豚……じゃねえか猪の角煮、炊事班の賄いか?こいつ旨いんだわ。とりあえず机にでも置いて一杯やろうじゃねえか」
ふくれっ面の要がカウラ、アイシャの横をすり抜ける。肩にかからない程度に切りそろえられた髪をなびかせながら、要はアイシャと嵯峨との間に腰を下ろして嵯峨からコップを受け取った。
「叔父貴。ケチるんじゃねえぞ!」
「分かってるよ。まあアイシャも少しは付き合え。カウラすまんな。とりあえず茶でも飲んでくれ」
要の労をねぎらうべく、嵯峨は自分達より多めに酒をついでやった。乾杯を待たずコップの中の酒を口に含む要。
「いいねえ、こいつやっぱ旨いや。アルコール度数も高けえんじゃねえの?」
「そうだな。確か18度くらいじゃないのか?」
「ええと、正解です。アルコール度数17?19度」
誠は手書きのラベルの片隅に書かれた品名の欄を読み上げる。
「それじゃあ私はセーブしながら飲まないと」
「だな。アイシャはそれほど強くないからな。まあアタシは好きなだけ飲むけど」
要がまたグビリと酒を口に含んだ。誠が一口飲む間に、もうさっき注いだ酒の半分が消えていた。
「要坊。もう少し味わって飲めよ」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作家名:橋本 直