遼州戦記 保安隊日乗
「なんだね神前」
やわらかいようでいて、何故か岩盤のような強固な固さがあるような雰囲気に飲まれぬように注意しながら誠は話を続けた。
「人間てそれほど戦いと言う緊張状態に慣れらるものでしょうか?」
誠のその言葉に思わず口元を緩めるマリア。
「悲しいが人間の適応力は凄いものだ。私も二十年前にはこんな稼業に手を染めるなんて思ってもいなかったものだよ。だが、私はここにいて、さらに二日後には確実に人を殺めることになるのは分かっている」
マリアの顔に先ほどシャムに見た黒い影が面差しを曇らせる。
「それでもこうして今の所笑っていられる。それが人間だ」
どこかあきらめたような自嘲的な笑みが、その整った口元をゆがめているのを見て、誠は少しばかりこんな事を話した事を後悔していた。
「しかし、誰かがこんな事をしなければならない。そして他の誰でもなく私がすることになった。それが現実なら受け止めるしかない。私はそう思っている。現実はいつでも酷く残忍なものさ」
ドアが開き居住スペースの所に止まった。誠は下に行くマリアと別れてこの階で降りた。敬礼をしようとする誠に首を振りながらドアに消えるマリア。
誠はそのまま居住スペースの廊下を進み、角を曲がった誠の私室の前で一人の男が酒瓶を手に誠を待っていた。
「久しぶりに飲もうや」
先回りして待っていた嵯峨は、また普段のダルめの雰囲気を背負いながら手を振った。よれよれの作業服。無精ひげ。40を過ぎたとは思えないように張りのある顔つきにどこか影を感じる。
「とりあえず入りましょう」
誠はそれだけ言って、指紋認証でドアのキーを解除して私室に入り込んだ。
「結構片付いてるじゃないか」
ただ置くべきものがないだけの部屋を嵯峨はそう評した。
「ああ、コップはあるんだな。俺も念のため持ってきたんだけど」
二つのグラスを出すと、作業用の机の上にコップを並べて注ぎ始める嵯峨。誠はベッドに腰をかけその様子を見ていた。
「まあ飲めや」
そう言うと嵯峨は注ぎ終わったコップを誠に渡し、自分もそれを一舐めしたあと悠然と部屋の中を見回した。
「正直どうだい?初の実戦の前の気持ちは」
酒の味の余韻に浸るように眼を細めながら嵯峨はそう切り出す。
「よく分からないです。これから自分の手で何人かの人を殺す事になるだろうと言う事はこれまで考えた事ありませんから」
「そうか」
それだけだった。嵯峨は特に何の感想も無いとでも言うように静かに頷くと再び酒瓶からコップに酒を注ぐ。
「確かにそうだな。脱出装置なんていうものは、所詮、お守りくらいのもんだと思っていたほうがいい。熱核反応式のエンジン搭載の火龍なんかじゃあエンジンの爆縮に巻き込まれてまず助からんだろうな」
嵯峨はそう言いながら今度は一息で注いだ酒をのどの奥に流し込んだ。
「ちょっと不安になったみたいだな」
嵯峨はコップに酒を注ぎながらそう言った。表情は特にいつもと変わらない。昔からの彼の二つ名「人斬り新三」のことは知っているので彼が誠に想像する事ができないような修羅場をくぐっている事は知っていた。
『人間慣れてしまうものだ』
マリアの言葉が頭から離れない。
嵯峨は明らかに人の死と言うものに慣れている側の人間だ。
「いつもと違って進まないじゃないか?そうだ。シャムが作ってる猪の干し肉があるぞ。結構、癖はあるが酒にはあう」
ポケットから薄くスライスした猪肉を干したと思われるものを差し出す嵯峨。
「ちょっといいですか?」
誠はそう言うと一切れ千切り、軽く匂いをかいだ。野趣溢れるというのはこのことを言うんだろう、野生動物特有の臭みが鼻を襲う。
「それと柿の種持ってきたけど食うか?」
今度は右の胸ポケットからビニールに入った柿の種を取り出す。
「俺は制服とか嫌いなんだけどさ、こう言う時はポケットが多い軍服が便利に感じるね」
嵯峨はそう言って取り出した柿の種のビニールを破ると誠に手渡す。手にしながら食べるかどうか躊躇していた干し肉を嵯峨に手渡して柿の種を受け取った。
「こう言う実力行使部隊には隊長には多くの権限を与える事が多い、それはなぜだと思う?」
いつものいたずらっ子のような自虐的な笑みが嵯峨の顔の口元に光臨する。誠は柿の種を一粒口に放り込んで、コップ酒を傾けた。
「状況の変化に対応するためには、現状を一番理解している指揮官に裁量を与える必要があるからですか?」
「そりゃあ後付の理由だ。実際、意外に人間の作る組織ってのは不安定なもんだ。それに常に指揮官が現状を把握できるとは限らん。むしろ情報が多すぎて状況を把握できない指揮官が殆どだな。俺もそう言う状況にゃあずいぶん出くわしたもんだ」
また笑みがこぼれた。
「責任を取らせるためですか?」
投げやりに誠が言った言葉を嵯峨は櫛がしばらく入っていないと言うような髪をかき回しながら受け取った。
「まあ俺の本職は憲兵隊だからな。まさに責任取らして詰め腹切らせるのが仕事だったようなものだ。隊員の指揮命令系統下での全ての行動は指揮官の責となる」
嵯峨はまたゆっくりと酒を口に運ぶ。
「つまりだ、お前さんは命令違反をしない限り、敵を殺したのは俺と言うことだ」
いくつかその言葉に対して言い返したいこともあったが、誠は静かにコップ酒を一口、口に含んだ。
「誠。お前さんがそう簡単に物事を割り切れる人間じゃない事は知っているよ。自分の責任の範疇じゃ無いからと言って、すんなり人を殺せと言う命令に納得できる方がどうかしてる。少なくとも初の出撃の時からそれを覚悟しているなら、他の部隊でも行ってくれと言うのが俺の本音だね」
コップのそこに残った酒をあおると、嵯峨はシャム謹製の干し肉をくわえた。
「そんなものですか?」
「そんなものだよ」
嵯峨はまた静かに三杯目の酒をコップに注いだ。
「よく見ると殺風景な部屋だねえ。お前の好きなアニメのポスターの一枚も貼ればいいのに」
グビリと嵯峨は酒を口に含む。
「お前、あれだろ。アニメのディスクとかに付いてきたポスターとか、きっちり保存用に溜め込む口だろ?まあシャムやアイシャもそんなこと言ってたからなあ。アイシャなんかは保存用、布教用、観賞用って三つも同じディスク買い込んでるみたいだからな」
確かに自分もそうなので誠は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「せめてカレンダーくらい貼っといた方が気が休まるんじゃないか?こんなに殺風景だと……おい、誰か来てるみたいだぞ」
入り口の所を指差し、嵯峨はそう言った。誠は指示されるままに扉を開く。
「よう!元気か!って、なんだ、叔父貴もいたのかよ」
少しばかり上機嫌になっている要がそこにいた。自分も酔ってはいるものの、要の息は明らかに大量の蒸留酒を飲んでアルコールに満ち溢れたそれだ。
「おいおい、一応待機中なんだぜ、もうちょっと自重してもいいんじゃないのか?」
「かてえこと言うなよ!おい神前!」
直立不動の態勢をとった誠だが、先ほどのシャムの『タレ眼』と言う指摘を思い出し、じっと要の顔を見ていた。
「どうした?アタシのあまりの美しさに言葉もねえのか?」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作家名:橋本 直