遼州戦記 保安隊日乗
「それより神前君。あなた隊長に挨拶して無いでしょ?隊長はどこにいるのかしら?」
二人のにらみ合いをまるで無視した明華は、真っ直ぐに切りそろえられた前髪を撫でると、気を利かせるようにして誠に声をかけた。誠はようやく安心して要とカウラの険悪な睨み合いの場から解放された。
誠はハンガーの前を明華につれられて歩き回る。その運動場のような広場の片隅にはネットが張られており、その周りには使い古したバットやボールが転がっていた。
「隊長はいつもどこにいるのか分からない人だから……」
明華が周りを見渡して嵯峨を探していた。隊員は先ほどから明華のだす女王様オーラに当てられたというように出来るだけ明華とは距離を置こうとしていた。
そんな彼等を見て、誠は酒を飲んでいるのが要だけだと知って安心した。だが、その異常な食べっぷりを見て少しばかり驚いていた。明華の監視で酒が飲めない分、ほとんどやけになっているとしか思えない整備班員の食べっぷりは、体格では圧倒的に勝る誠のそれを遥かに凌駕する勢いで、少しばかり誠も呆れ始めた。
「隊長ならいつも風通しのいいところにいるよ!」
「あのおっさんは野菜か何かかよ」
明華のオーラが作り出すエアポケットのように隊員達が立ち去ったコンロの前で、シャムと吉田が並んでとうもろこしを頬張っていた。吉田も手にビールを持っている。
「あのー……」
「ああ、これね。俺は酒には酔わないから」
そう言うと吉田は一気にビールを飲み始める。そんな吉田を黙殺することを決めた明華はシャムに向き直った。
「じゃああれね、ハンガーの裏手かなんかにいるんでしょうね。それとシャム。食べるのは後にして足元の荷物、神前君のでしょ?運んであげなきゃ駄目じゃないの」
明華はそういうと今度は目的地が決まったと言うように確かな足取りで歩き出した。
その先に女性隊員の一群が、なにやら群れを成しているのが見えた。
彼女達の表情には笑みが浮かんでいるが、それが無理をして作った笑顔であることは誠から見てもすぐにわかった。
「急ぎましょう!声をかけられたら……」
急に明華の女王様オーラが消えて、何かから逃げようと言うように歩みを速めているのがわかった。
「明華ちゃんと新入りの人!私の歌を聞きに来てくれたの?うれしいわ!」
アンプを通した大音量の声が響き渡った。あきらめたように明華は立ち止まると声のするほうを振り返った。
「あちゃあ、見つかっちゃったみたいね……」
明華が恐る恐る見つめる先に、赤の地に金糸を豪勢に使った派手な和服を着た長い白髪をなびかせている長身の女性の姿が見えて、誠は眼を疑った。隣の菱川の工場から分けてもらってきたようなパレットで舞台を作り、大きなスピーカーを背負い、彼女は立っていた。
その周りには少しばかり生気の抜けたような女性隊員がうつろな拍手を和服の女性に送っている。
「ああ、あれね。彼女がうちの隊の運用艦『高雄』の艦長、鈴木リアナ中佐よ。リアナ!ちょっと新入りを隊長に引き合わせるから歌はちょっと待ってて!」
そう言うと明華は立ち往生している誠の手を引いて歩き始めた。
「残念ねえ。せっかくこの日のために猛練習してきたのに……」
「あんた!練習したって無駄でしょ。今のうちに行くわよ」
リアナの声から明華は逃げるようにして誠をつれていく。背中では演歌のイントロが始まったと思うと、実に微妙に音程を外している歌声が響き渡った。
明華と誠はそれから逃れるようにしてハンガーの裏手に回りこんだ。
確かにシャムの言うように、表とは違う涼しげな風が二人を包み込んでいた。
ハンガーの前の熱風とは明らかに違うやさしい風が頬を撫でる。明華につれられてここまで来た誠は、少し離れた空き地に見慣れた背中を見つけた。東和軍の規格とは違う、茶色い開襟将校用制服に帽垂付の戦闘帽をかぶっている。
そして特徴的なのは腰に下げた朱塗りの軍刀。それを胡州帝国陸軍風につるしている。このスタイルは第三次遼州戦争を経験した胡州の高級将校の格好である。そんな男が一人で七輪の前に座っている。
「嵯峨隊長。神前少尉候補生を案内してきました」
これまでの女王様スタイルから一転して、明華は報告口調でそう言った。誠も少しばかり緊張しながら案内された隊長に向かって敬礼した。その言葉にゆっくりと嵯峨の頭が誠達を向いた。年齢不詳。誠の道場に通っている嵯峨を誠はずっと三十前と思っていたが、軍に入ってその略歴を知り、実は四十半ばと知って驚いたことがあった。しかし、その濁った目を見ると確かに世間を見慣れた中年男らしいという雰囲気をかもし出している。
「相変わらず硬てえなあ、明華。俺はそういうのがどうも苦手でね。しばらくぶりだな誠。まあこんなところだから好きにやってくれて良いよ」
明華と誠はそのまま嵯峨の正面に回りこんだ。嵯峨が覆いかぶさっているのは七輪だった。横にはぼろぼろの団扇が見える。そして、その上で焼かれているのがメザシだとわかって、彼の実家の道場に顔を出す時の飄々とした嵯峨らしいと思った。
遼南王家の嫡流、胡州のエリート公家士官、そして遼南内戦を生き抜いて玉座についた策士。そのような肩書きがこの男にはまるで似合わない。さらに直接何度も言葉を交わすうちに、これらの偉業が本当に嵯峨と言う男の業績なのか疑いたくもなった。
弁護士を開業していると言う話だったが、ほとんど毎日のように道場に通って来ては三食食べて帰るという生活である。その後、同盟司法局の実働部隊の指揮官になったと知らされても、道場に来る頻度が減ったくらいでほとんどその生活に変化は無かった。
「おい、どうしたの?」
ぱたぱたと団扇で七輪を扇ぐ姿は王族の気品も政治家の洞察力も、それどころか誠が知っている鋭い太刀筋の剣客の面影も無かった。
誠がここにこうして立っている原因を作った張本人だと言うのに、それほど誠に関心を示すそぶりもなく、じっとメザシが焼けるのを待っている嵯峨。明華もそんな嵯峨の態度には慣れているようで香ばしい煙を上げているめざしを眺めながら、嵯峨が何かを言い出すのを待っていた。
「お前らいつまでそこに突っ立ってるつもりだよ。飲むかとりあえず」
そう言うと嵯峨は一升瓶を突き出してきた。手書きのラベルが張ってあるところから見て、どこかの小さな酒蔵の特注の大吟醸かもしれない。食べることと飲むことにはこだわる。誠の家も、嵯峨の差し入れがきっかけで食事が豪勢になるような日があったことを思い出した。
「一応、勤務時間中ですので失礼します」
明華はそういって踵を返し、誠一人が取り残された。振り向こうにも、明華のどこか人を寄せ付けない態度を思い出して、誠は目の前のとぼけた中年男と二人きりの状態になった。
「よし誠。お前は……ってどうせ歓迎会で飲まされるんだろうから止めとくか」
嵯峨はそういうと取り出した湯飲み茶碗に酒を注いだ。そのまま嵯峨は茶碗を鼻の前に翳して香を楽しむ。そして一口酒を含むと、目をつぶってその味を堪能して見せた。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作家名:橋本 直