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遼州戦記 保安隊日乗

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 サードベースの横に立っているアイシャからボールを受け取ると明石はいつものどら声で叫んだ。
「そんなに大きな声出さなくてもいいじゃないですか」
 アイシャはそう言うとプロテクターに身を固めた明石にボールを投げ返す。
 しばらくボールを持って考えていた明石が何かひらめいたようにマウンドの上の誠を見た。
「神前の。お前も打席に打者が立っとる方が勘が戻るじゃろ?」
 そう言うと明石は手にしたボールを誠に投げた。
 投手用の大きめのグラブでそれを受け取ると、誠はボールと明石を何度か見比べてみた。
「はい、まあ……」 
 誠は曖昧にそう答えた。
 自信はなかった。
 懐かしい白い練習用のユニフォームに袖を通している間から、昨日には無い不安が彼を支配していた。
 本当に肩は大丈夫なのだろうか?
 肩を回し、腕を上げ、違和感が無いことは確実に分かるのだが、かつての肩の筋肉の盛り上がりは無くなっていた。球速は戻らないのは自分でも良く分かる。これから筋トレして元の体を作り上げたとしても、肩への不安が残り続けるのは分かっていた。
「今度はマジでいこ、マスクつけるわ。カウラ、いい勉強だ審判やれ。島田とキム、それにヨハンは外野で球でも拾えや」 
 そう言い残すと明石は用具置き場のほうに歩いていった。
「誠ちゃん!ただ打つだけじゃつまらないから、なんか賭けない?」 
 久しぶりの投球を前に緊張している誠に向けて、アイシャはそう話しかけた。
 カウラの目が鋭くこちらのほうを見ているのを痛々しく感じながら、誠はおずおずと三塁ベースからホームに歩くアイシャの方を見つめた。
「賭けるって……冬コミの執筆か何かですか?」
 呆れたように両手を広げるアイシャ。彼女はバットを持ってホームベースのところにいたカウラからバットを奪い取ると素早くスイングをした。
 右打ち、バットはグリップエンドぎりぎりのところを持って腕をたたんで振りぬく。 
「馬鹿ねえそれはもう決定事項だから。そうじゃなくって私が勝ったら、キスさせてもらうってのはどう?損な話じゃないと思うけど……」
 そのアイシャの言葉に誠は混乱した。 
「アイシャさん、それって逆じゃあ……」
 同じく動揺していたカウラがアイシャの狙いを理解して彼女をにらみつけた。 
「怖い顔しないでよカウラ。誠君も奥手そうだからね。じゃあ先生が勝ったらカウラにキスさせてあげるって言うのはどう?」
 にらんでいたはずのカウラが急に頬を染めてうつむいた。
 しばらく下を向いてスパイクで何度かグラウンドの土を蹴飛ばした後、言葉の意味を理解して激高するようにスイングを続けるアイシャを見つめた。 
「アイシャ!何を言ってるんだ!」 
 動揺しているカウラの顔が赤く染まる。
「ほんとこの子は冗談が分からないんだから……そうだ!今度、どっか行った時、奢ってあげるわよ。それでいいでしょ?それじゃあ決まりね!」 
 そう言うとアイシャは一人納得したようにバッターボックスに入った。インコースの低めの球をおっつけるようなスイング。外角高めの速球を予想して叩きつけるようなスイング。そして外角低めのボールを救い上げるようなスイングをアイシャは見せた。
 そしてアイシャは紺色の帽子を一度脱いで、後ろで縛った紺色の長い髪を風になびかせるとまるで挑発するように誠の投球を待つ用にオープンスタンスでバッターボックスに立った。
 用具部屋でマスクをつけた明石がグラウンドに小走りで現れる。吉田をはじめとした隊員達が誠の緊張した姿を見に人垣を作っていた。
「なに、ぼーっとしとる。アイシャの、何か注文があるんじゃ……」
 ホームベースの後ろでミットを叩きながら明石が尋ねた。
「そうですね、とりあえずストレート、チェンジアップ、スライダーの順で投げてみてもらえますか?とりあえず球筋が見たいんで」 
 そう言うとアイシャは流し目を誠に向けた。明石からボールを受けると誠は左手の上で転がす。
 肩は先ほどまで続けていた投球練習でかなり出来上がっていた。確かに大学時代に比べれば球威は無いが素人に打たれるような気はしなかった。
「なかなか、ええチョイスしとるのう。コースの指定とかは無くてええのか?」 
「ええ、とりあえず先生が自信を持ってるだろうコースをリードしてもらえば」 
 そう言うとアイシャは不敵な笑みを誠に投げかけた。
 打たれる。
 誠はそう直感した。昔からこういう時の勘は外れたことが無い。ネガティブな思考がピッチャーにとって致命的なのは自分でも分かっていたがこれだけはどうしようもなかった。
 ボールを何度か指に絡ませてマウンドの上で明石のミットが定まるのを待った。
 初球はインハイにミットがある。
 左ピッチャーならではのクロスファイアーを決めるのに、うってつけのコースだ。
 誠はゆっくりと振りかぶる。しかし、どこかで先ほどのアイシャの笑みが拭いきれない。
『出来るだけ前でボールをリリースする』 
 昨日カウラから聞いた一言で、それを何とか拭い去ろうとした。
 事実、指先までの感覚は全て納得がいくフォームだった。しかし、ボールはシュート回転して少し内側へと曲がりこみストライクゾーンの中に決まった。
「打ちごろね」 
 アイシャはそれだけ言うと軽くそのコースの球を、右方向におっつけるようなスイングをして見せた。
 明石もその後ろのカウラも昨日より球の切れは増していることは認めたが、コースが不味いというような顔をしていた。
 何も言わずに明石がボールを返す。
『僕が一番それを分かってるんだ』
 誠はそう思った。
 次はチェンジアップ。
 明石のミットはもうすでにインコースの膝元に定まっている。どうやら明石のリードはかなり強気らしい。アイシャの先ほどのスイングから見て基本的に反対方向へ持っていく型のバッターなのだろう。そう誠は思うと自然に体に緊張が走った。
 コーナーワークが命綱の誠にとって引っ張りにかかる大物打ちのバッターの方が御しやすい相手だった。アイシャのようなタイプは緩急を使って体勢を崩しても外角のストライクゾーンに甘く入ればそのままライト線に流されて長打を打たれることもありうる。
 誠はボールの握りを作るとゆっくりと振りかぶった。
 今度は決めて見せる。しかし……。
 迷っている自分を意識している分、ボールを離すタイミングがわずかに遅れた。
 今度はボールは明らかに低すぎるコースでミットの中に納まった。
「ちゃんと、振る気になるような球投げてくれなきゃ参考にならないじゃないの」 
 アイシャがぼやいた。
 泣き言を言いたいのはこっちの方だ。誠は心の中でそう思った。
 次はスライダー。
 もう明石はアウトコース低め一杯にミットを構えている。
 あのコースへのスライダーは自信がある。ただし……。
 誠は心がすでに折れている自分が分かっていた。それでもカウラの真剣な眼差しが、少しばかり彼に勇気をもたらした。今度は自信を持って、リラックスしてモーションに入った。
 どうせ見るだけだ。相手がいなければ……誠はそう割り切って素早く腕を切るように振り切った。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作家名:橋本 直