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犯罪者予備軍の皆様へ

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八月十日 午前六時



 雀の鳴く声で目が覚めた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、窓から差し込む光がコンクリートの床をやわらかく照らしていた。背中を預けていた壁もまた陽光に彩られ、程よく涼しい気温が朝の訪れを告げている。高すぎる位置にある窓に目をやれば、きれいに四角く切り取られた快晴が覗いており、今日の昼時の気温の高さを思わせた。きっと猛暑になるだろう。高気温に高湿度をプラスした東京の夏は、お世辞にも過ごしやすい季節とはいえない。
 東京。僕は、日本の首都であるその地名を、頭の中で呟いた。
 昨晩、とにかく隠れられる場所を探していた僕は、走りながらようやく現在の状況の恐怖を実感し始めた。目の前に死体があり、なおかつ自分には記憶がない。自分が殺してしまったのかさえ覚えておらず、しかも、自分が殺人を犯してしまったかもしれないことを知っている人間がいるのだ。その「安達太良」というふざけた名前でメールを送って寄越した人物に、当然だが思い当たる節はない。記憶をなくしてしまっている以上、そういった名前の知人がいないとは言い切れないが、あんなふざけたメールを送ってくる人間が本名をそのまま使うとは思えなかった。
 自分が置かれた状況の恐ろしさと不気味さに、僕はようやく恐怖を感じ始めた。そして、同時に混乱が襲ってきた。キャパシティをはるかにこえた現状に、僕は走りながら小さく呻き声をあげた。言葉にもならない、音を伴った息。そんなものを吐き出しながら真夜中に全力疾走する僕は、傍から見れば不審者以外のなにものでもなかっただろう。
 僕は、十分ほど走ったところで、ゆっくりと足を止めた。そして、素早く後ろを振り返り、人がいないことを確認するとそのままそこに座り込んだ。
 通常では考えられないほどに息があがっていた。全力疾走したとはいえ、この息の荒さは普通ではない。喉の奥が乾き、ぜいぜいと音がする。まるで笛が鳴るような音色が口の中から響いており、僕はようやく自分の気が動転していることを自覚した。
「ぼ、くは、」
 自らを落ち着けるべく、荒い呼吸に構わず声を発する。何でもいいから声を出さなければ、このまま狂ってしまうような気がした。
「ぼく、は、……だれ、なん、だ?」
 狭い道のブロック塀に背中を預け、肩で息をしながら、自らに問いかけた。無論、今の僕は、その問いの答えに足る情報を持っていない。
 混乱が脳内を占拠していた。今ならたとえ気が狂ってしまってもおかしくないだろう。あるはずの情報が消えてしまったというこの状況で、穏やかな精神を保てるわけがなかった。
 気付けば、手足の先がじんと痺れていた。皮膚の表面がひりひりと傷むような痺れだったが、動作に支障はないようだ。頭痛や気だるさは感じないため、もしかしたら神経性のものかもしれない。記憶が吹っ飛ぶことに比べれば、手足の痺れなど大した問題でもないだろう。とりあえず、混乱が支配する脳内をどうにかして落ち着けようとする傍ら、僕は手足の痺れを解消するべく座ったまま体を動かした。
 その時、前後に手を揺らした瞬間、指先がズボンのポケットの中の何かに触れた。
「そうだ、携帯!」
 走り出す前、つまりは混乱に支配される前、携帯や財布を確認してみようと考えたことを思い出した。携帯や財布には普通、個人情報がぎっしりとつまっているものだ。それらを見て記憶が戻れば一番だが、少なくとも自分が何者かを知ることが出来る。
 勢いよくポケットに手を突っ込み、折りたたみの携帯を取り出す。ボディの色は黒で、ごくありふれた普通の携帯だ。この携帯を「ありふれた携帯」と思える程度の知識は、記憶として自分の中に眠っているらしい。しかし、その携帯を見ても、吹っ飛んだ記憶が呼び起こされることはなさそうだった。
 親指を使って携帯を開く。携帯を使う仕草に不自然な点はなく、やはり自分はこういった知識は覚えているようだった。不幸中の幸いだ。
 右手の親指を動かしてキーを押す。まずは自分自身の情報を確認べきだろう。設定画面を選択し、項目をひとおおり眺める。「所有者情報」、これだ。
「……和久井優人」
 わくいゆうと。ご丁寧に振り仮名まで登録されていたから、読み方に間違いはないだろう。そして、所有者情報という項目にあるくらいだから、おそらくこれが自分の名前で間違いない。
 携帯電話のディスプレイに表示されたその名前を、頭の中で繰り返し呟く。しかし、何度その言葉を見返してみても、響きや音、文字列に自身の記憶が反応することはなかった。
「……とにかく、これが僕の名前だってことだ」
 ようやく落ち着いてきた呼吸の隙間から、吐き出すように言葉を紡いだ。自分を落ち着けるために発した言葉だった。
 僕は続けて携帯の電話帳を開いた。自分の名字が分かったのだから、同じ名字の人物がいればそれが家族や親戚である可能性が高い。「母親」や「弟」で登録されていれば一番分かりやすいが、残念ながら「は行」や「あ行」にそういった単語は見受けられなかった。
 しかし、期待もむなしく、「母親」「弟」どころか、電話帳には「和久井」という名字の人物は誰一人として登録されていなかった。つまり、僕は家族の連絡先を登録していないか、もしくは別の名前で登録していたのだろう。僕は、記憶をなくす前の自分の習性に、思わず小さく舌打ちをした。
 次に、着信履歴とリダイヤルを確認することにした。その二つに多く登場している人物は、ほぼ間違いなく僕と頻繁にコンタクトを取っているはずだ。それが家族や親戚でなくとも、心のおける相手である可能性は高い。
 しかし、手馴れた操作で着信履歴のページを開いた瞬間、僕は思わず言葉を失った。
「……っ!」
 携帯を操作していた親指の動きが、エンターキーの上でとまる。それとほぼ同時にのみこんだ息が、ごくりと僕の喉を鳴らした。
 着信履歴は、まっしろだった。まさかと思い、一瞬の間を置いてリダイヤルのページを開けば、そちらにも同様に「データがありません」という文字が表示されている。
「……どういうこと、だ」
 視界から得た情報を頼りに、脳がこの状況に対する答えの可能性を模索した。その結果、そこからはじき出された回答は、「この携帯は買ったばかりで、誰とも連絡を取り合っていない」、そして「記憶をなくす前の自分は、着信履歴とリダイヤルをいちいち削除していた」の二つだった。
 僕は、視線を携帯から動かさないまま、ゆっくりと携帯を閉じた。ぱちん、と小気味良い音をたてて閉じたそれは、おとなしく僕の掌の中におさまっている。数秒の間ちかちかと光を点滅させたサブウィンドウは、僕が何の操作をする気もないと悟ると素直に省エネモードに切り替わり、ただの小さな黒い画面に戻った。
 掌におさめた携帯のボディを眺める。もう片方の手も使って回転させながら確認すると、その黒いボディには小さな傷がたくさんあった。そのうえ、右上の角が少しばかり派手にひしゃげている。その傷の劣化具合を見るに、とてもここ数日でついた傷とは思えなかった。
作品名:犯罪者予備軍の皆様へ 作家名:みなみ