犯罪者予備軍の皆様へ
つまり、この携帯を買ったのは、おそらくここ数日の話ではない。少なくとも、数ヶ月以上は経っているだろう。自分がものすごくドジでおっちょこちょいだとすれば話は別だが、携帯についた傷はとても新品直後のものとは思えなかった。
――ということは、だ。
「……僕は、着信履歴とリダイヤルを、片っ端から消してたってことか……?」
それを行う心理と状況を、今の僕には思いつくことが出来なかった。
基本的に、着信履歴とリダイヤルは削除したりしないものだ、と僕は認識している。記憶云々というより、そういうものだと思っているようだ。つまり、記憶をなくす前の僕も、おそらく「着信履歴とリダイヤルの削除はふつう行わない」という考えを持っていた、ということだろう。
しかし、にも関わらず、僕の携帯の着信履歴とリダイヤルは見事すっからかんになっていた。実は僕がものすごく電話嫌いで誰にも電話をかけないようにしていた、という可能性がないわけではないが、確率として高いか低いかといえば、相当低いだろう。つまり僕は、「ふつうは削除しない」と思っていたにも関わらず、なんらかの事情か考えがあって、それを実行していた、ということだ。
「……なんらかの事情って、なんだよ」
思わず声に出して呟いても、当然ながら答えが返ってくることはない。僕は、記憶をなくす前の自分の行いに対して盛大に溜息を吐いた。
とりあえず、手に持っていた携帯を元のポケットの中に戻した。本当ならもっと詳しく個人情報を調べてみるべきだろうが、着信履歴とリダイヤルの他にも自分の意味不明な行動が出てくるかもしれないと思うと少しもやる気が出てこない。これ以上不可解な問題を増やすのはごめんだった。
はあ、と重苦しいため息を吐き出しながら、携帯の次に取り出したのは、財布だ。携帯とは反対のポケットに入っていたそれは、黒い革張りの二つ折りタイプで、見るからに安そうだった。こういう小物に金をかけるタイプじゃなかったんだな、と思いながら、僕はきれいに折りたたまれている財布を開いた。
中には、千円札が四枚と、五千円札が一枚、それからカードが何枚か入っていた。ちなみに小銭はズボンのポケットの中だ。とりあえず、財布に入っているカードを全て取り出して、それらを扇状に広げた。そう枚数が多いわけでもないカードの種類は、ポイントカードの類は一枚もなく、図書館のカードや、PASMOのカード、ゆうちょのキャッシュカード、保険証といった事務的なものばかりだった。しかし、その中にクレジットカードと免許証はなかった。どうやらローンや車、バイクといったものには興味がなかったらしい。
他に何かないものか、と財布のカード入れを探る。安物の財布にしてはカード入れの数が多く、ひとつひとつ確認するのもひと苦労だ。
「……ん?」
財布を開いた状態の一番右下にあるポケット、その中に指を突っ込む。すると、指先に革以外の感触があった。それらを指先で無理やりに引っ張ってみると、どこかは分からないが山の風景を写した写真と、――僕自身の学生証の二つが出てきた。
僕は、その学生証に飛びついた。自分の個人情報を探している今、僕が通っていた学校を示すそれは、最重要アイテムといっても過言ではない。あいにく住所は記載されていないようだったが、それでもそこには太く大きな明朝体で学校名がしっかりと書かれていた。
「……K大学、文学部、人文社会学科」
その大学の名前を、僕は知っている。記憶とは別にある、知識というものなのだろうか。むしろ、その大学名はあまりにも有名すぎるため、もはや地名と似たような感覚で覚えているのかもしれない。
全国レベルで有名な、東京の私立大学のひとつ。僕はどうやら、その大学の学生らしい。これっぽっちも覚えていないが、学生証があるということはそうなのだろう。
とりあえず、自分が在学している学校が分かった。同時に、自分が学生ということと、学生証に記載されている誕生日から年齢が二十歳なのだということも分かった。
そして、もうひとつ。
「……ここは、東京なのか?」
確定ではない。しかし、東京にある私立大学に通っている自分が居るということは、ここはおそらく東京なのだろう。東京のどこなのかまでは分からないが、大学の近くである可能性は高い。
周辺を見回しても、先ほどと変わらず既視感はない。だが、ここがもし東京であるのなら、辺りを歩いているうちにぽろっと何か思い出す可能性もあるだろう。むしろ、明日になったら全て思い出しているかもしれないのだ。
少しずつ、本当に少しずつであるが、手元に情報が戻ってくる。記憶は未だよみがえらないが、それでもこうして情報を辿っていけば、いつかきっと記憶も戻るに違いない。そう思いたかった。
僕は、心を落ち着けるように大きく息を吐き出すと、素早く立ち上がった。ブロック塀にもたれていた背中をぴんと伸ばし、手に持っていたカード類を財布の中に戻す。そして、一度目をぎゅっと瞑り、勢いよく開いた。視界には相変わらず夜が広がっているが、先ほどまでのような混乱はもうない。
「よし」
芯の通った声。状況が改善されたわけではないが、それでも前進はしている。どこに向かって進んでいるのかは自分でも皆目検討つかないが、それでもその場で足踏みしているよりはずっといいだろう。
「まずは、今日の寝床だな」
勿論、誰にも見つからないような場所であることが条件だが。周囲を二、三度見渡して、人がいないことを確認する。この深夜に誰かがいるとも思えなかったが、自分でも理解できない状況に放り込まれている以上、用心に越したことはない。
そうして、十分ほど歩いたところに見つけた倉庫で夜を明かした。当然、毛布や布団があるわけもなかったが、熱帯夜にそれらが必要なはずもない。今の季節が夏であることに心から感謝をした夜だった。
そして今、朝を迎えた僕は、昨日と比較して、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
自分の名前が分かる。自分の在籍している学校が分かる。年齢が分かる。今いる都道府県が分かる。通常ならば、それらは分かっていて当然のことだ。しかし、今の僕にはただそれだけの事実がたまらなく安心に繋がる。
傍らに置いていた携帯を開く。時間は、ちょうど午前六時。安達太良という謎の人物が指定した時間まで、あと十二時間。
まだまだ謎は多い。むしろ謎だらけだ。しかし、だからといって前進するすべがないわけではない。
僕は、やる気の消失を防ぐため、とりあえず朝飯を買おうと財布を持って立ち上がった。窓の外では、なおも雀の鳴き声が響いていた。
作品名:犯罪者予備軍の皆様へ 作家名:みなみ