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犯罪者予備軍の皆様へ

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 そもそも件名からして意味が分からない。差出人のメールアドレスも名前と思われる漢字も胡散臭いを通り越して悪戯としか思えなかった。「犯罪者予備軍から脱する方法」というのもまるであやしげな情報商材のようで、信頼性の欠片もない。増して、犯罪者予備軍と銘打たれているのは、メールの内容からして明らかに僕だ。犯罪を犯した覚えなどこれっぽっちもないというのに、こんなメールが届く理由が分からなかった。
「悪戯、なのかな……」
 しかし、それを悪戯と断言することの出来ない自分がいる。呟く言葉は自然と曖昧なものになった。
 ただの勘違いであって欲しい。――しかし、抱える不安を否定するだけの情報を、今の僕は持ち合わせていなかった。
 携帯電話のディスプレイを見ていた目線を、街灯に照らされた死体へ向ける。僕の不安を最も肯定する要素である刺殺死体。そこには先ほどと微塵も変わらない状態の死体が転がっており、今の状況の不可解さをますます明確なものにした。
 僕は、何故だか分からないが、とにかく記憶をなくした。どうやら自身の情報のみ失ったようだったが、自分の名前さえ思い出せない状況が好ましい状況とは思えない。
 そして、目の前には知らない男の死体が転がっている。血溜まりは既に乾燥し始めており、道の端から端までを赤く染め上げたそれは既に領土の拡大を止め、伏せた男の身体の下で赤黒く凝固していた。
 そんな二つの不可解が揃った状況下、あまりにも出来すぎといっていいタイミングで届いたメール。「犯罪者予備軍の皆様へ」と題されたそれは明らかに悪戯としか思えない内容のメールだった。しかし、それでも完全に無視できないのは、――僕が今置かれている状況が、あまりにもこのメールの内容に相応しいものだから、だ。
「僕は、犯罪者なのか……?」
 自分が何者か分からない。何故この場所にいるのか、何故目の前に死体があるのかも分からない。そして、このタイミングで届いたメールのあて先は「犯罪者予備軍」と呼ばれている、僕――
 つまり、そこからはじき出される結論は――目の前に転がる死体を作り出したのは自分かもしれない、ということだ。
「……嘘、だろ」
 とてもではないが信じられない。しかし、自分を信じるための情報が今の僕には何もない。僕が人を殺すはずがないと言ったところで、数十分前の自分が何を考えていたのかなど、僕は少しも知りはしないのだ。
 虫の声が夜の静寂を彩る。無機質な光を放ち続ける街灯は、時折瞬くようにその光を鈍らせた。当然のように死体が動くことはなく、僕が最初に視界に入れた時から何一つとして状況は変わっていない。
 混乱が増すばかりの脳は、今にもショートしてしまいそうな程に思考を巡らせていた。しかし、いくら考えても納得のいく答えは出なかった。
「……明日、午後十八時、東京都S区」
 今、僕の手元には、先ほどのメールに記載されていた情報しかない。自身の情報さえないという、はっきり言って最低に近い今の状況で、これ以上の情報を得るために出来ることはそう多くないだろう。それならば、選択肢を選ぶ必要もなく、僕の行動は既に決まっている。
「……行ってみるか」
 ここがどこかも分からないが、そんなものは調べればどうにでもなるだろう。今はただ、この状況に対する答えが欲しい。
 犯罪者予備軍。そう銘打たれたということは、僕は今後、犯罪者になる可能性があるということだ。勿論、そんなはずはないと信じたかったが、今は自分で自分を信じるための情報を手に入れるところから始めなければいけない。
 ぐっしょりと汗に濡れた身体に構うことなく、僕はくるりと踵を返した。まずは、他人に見つかる前に身を隠す必要があるだろう。今この状況で誰かに見つかれば、予備軍から犯罪者に即時昇格してしまう。
 自分の名前、自分の年齢、家族の有無、職業、性格、恋人。いくら記憶を漁っても、それらの情報が見つかることはなかった。僕は、身を隠せる場所を探しながら、後で携帯電話や財布の中を確認して個人情報を調べてみよう、と決意した。
 殆ど空になってしまった記憶の壷の中に、先ほど伏せていた刺殺死体の映像だけがありありと記録されていた。僕は、苦虫を噛み潰すような表情で、その場から足早に遠ざかって行った。


作品名:犯罪者予備軍の皆様へ 作家名:みなみ