犯罪者予備軍の皆様へ
八月九日
拡散する記憶の中で、生きていれば誰しも一度くらいは非常識な出来事を経験するものだ、という言葉がぼんやりと浮かび上がった。何処で誰に言われたのかは分からない。ただ、僕はその言葉に対して、「それが本当なら是非とも非常識な出来事というものに遭遇してみたいものだ」と思った。しかし、それはあくまで日常に対する刺激を求めるものであって、決して珍妙な事件に巻き込まれたいという願望ではない。少しばかりの刺激があれば、日々平凡に過ごしている人間は簡単に満足できるだろう。僕が求めていたのは、あくまでそういった些細な刺激だった。
しかし、今この瞬間、僕の眼前に広がっている光景は、僕の望んだ「些細な刺激」の範疇から大幅に逸脱していた。
全身の筋肉が言うことをきかない。意思とは別のところで行われるはずのまばたきでさえ、その役目を忘れた瞼が僕に視界を提供し続けている。背中は汗にまみれ、携帯電話を持つ右手の掌もまたじんわりと濡れていた。辺りは暗闇に包まれ、草むらから響く虫の声が夜の音色を紡いでいた。都会にしては随分と広い間隔で設置された街灯が、昼間の熱を閉じ込めたアスファルトを無機質に照らしていた。
目の前には赤い色が広がっていた。灰色であるはずのアスファルトはその肌を真っ赤に染め上げられており、その原因である赤い液体がまるで領土を拡大するかのようにゆっくりと表面積を広げている。そして、その赤い液体の中心にあるものは、――まぎれもなく、人間の身体だった。
「……なんだ、これ」
うつぶせに倒れている身体は男のもので、髪や服装から推測するに、恐らく三十歳から四十歳くらいだろう。お世辞にも良質とは言い難いスーツには皺が寄り、伏せた身体の下から覗くネクタイには百円ショップのタグが付いている。男の着ているスーツやシャツ、ネクタイは、その身体から流れ出ている赤い液体――血液のせいで、既に元の色や柄が分からなくなってしまっていた。
虫の声が響く夏の夜、等間隔で設置された街灯の下で、皺の寄ったスーツに身を包んだその男は、背中に包丁を突き立てられて絶命していた。――なぜか、僕の、目の前で。
「どういうことだ……?」
絶命した男の身体、つまりは死体を目の前にして、僕はひどく困惑していた。
無論、死体を目の前にして困惑しない人間の方が少ないだろう。たとえ職業がら死体を見慣れていたとしても、夜の道端に死体が転がっていれば驚いて当然だ。
しかし、僕が感じている困惑は、死体を見たことに対しての困惑ではなかった。
僕は今、自分が何故この場所にいるのか、何故自分の目の前に死体が転がっているのか、そして、――自分が何者なのかさえ、忘れてしまっていた。
「……僕は、なんで……、」
無意識のうちに呟かれた声はひどく掠れ、今の僕の心境をそのまま表しているようだった。胸を突き破りそうなほど強く鳴り響く鼓動は、もはや痛みにさえ近かった。
辺りは暗闇、目の前には死体。明らかに平凡とかけ離れた状況にいるというのに、そもそも何故自分がここに居るのか分からない。それどころか、今自分が立っているこの場所は何処なのか、暗闇に包まれた今は一体何時なのか、何故アスファルトの上に刺殺死体が転がっているのか、――そして、自分は一体何者なのか、先ほどからふつふつと沸いて出る疑問に対して、何一つとして答えを出すことが出来なかった。
つ、と額を伝う汗が瞳に流れ込みそうになり、思い出したように目を瞬かせる。瞼を下ろすと同時に視界を左右に揺らして周囲を確認するが、見覚えのある物は何もない。ずっと緊張していた筋肉を動かして身体を後ろに向けてみても、やはり何処にも既視感はなかった。
自分の理解の範疇を超えた出来事に直面し、明らかに脳がオーバーヒートを起こしていた。疑問符に溢れた思考回路でまっとうな答えがはじき出せる筈もないが、今の僕にはそんなことに気付く余裕さえない。眼前の出来事に加え、記憶が唐突に失われるという不可思議な状況に陥った僕は、体中から噴き出す汗に構うことも忘れて、ただひたすらこの状況に対する適切な回答を求めて脳をフル稼働させていた。
ふとその時、手の中の携帯電話が鈍い音をたてながら振動した。
「……メール?」
突然の振動に驚き、慌てて携帯電話を見る。どうやら無くした記憶の中に「携帯電話の使い方」は含まれていなかったらしく、僕は自然な動作で携帯電話を開いた。大きなディスプレイには今しがたメールが届いた旨を知らせるアイコンが表示されていて、差出人は見覚えのないメールアドレスだった。無論、記憶が吹っ飛んだ状態の僕に見覚えのあるメールアドレスがあるとも思えなかったが、とにかく電話帳に入っていない人物からのメールだということは分かった。
辺りには、虫の声以外に何の音もない静寂が広がっていた。僕は、コーヒーにミルクを落とすような滑らかさで、静寂の中にぽつりと声を紡いだ。
「……犯罪者予備軍の皆様へ……?」
ゆっくりと読み上げたそれは、メールの件名だった。差出人の項目には、アルファベットをランダムに選んで無作為に作られたようなメールアドレスが表示されている。今の不可解な状況に不可解さをプラスするようなその内容に、僕は言葉の語尾を吊り上げながら目を細めた。
キーを押してメールの本文を表示する。僕は件名と同様にそれも声に出して読み上げた。
「貴方は犯罪者予備軍です。国家権力によって犯罪者の烙印を押されたくない方は、下記に記された日時に指定された場所に行って下さい。私は、犯罪者予備軍から脱するための方法を存じております。信頼、疑惑、貴方の自由です。どうか貴方の人生が、過去から未来に渡って有意義なものでありますように。尚、このメールは一時間以内に消去して下さい。日程と場所のメモを取ることも禁止させて頂きます……」
そこまで読み上げ、僅かな空白をスクロールして進めると、メールの文章にあった通り日時と指定場所の記載があった。
「……二〇一〇年八月十日、午後十八時、東京都S区三栗屋町十五街区三番地、向かって右から三番目の倉庫」
携帯の日付を見ると、指定された日程はちょうど明日。ここがどこかは分からないが、東京都S区なら聞き覚えがあった。どうやら僕の記憶は、自分のことについてのみ抜け落ちているらしい。
メールの本文をもう一度スクロールする。メールの本題は以上のようだったが、本文の最後に見慣れない漢字があった。
「……読めない」
安達太良、と書かれたそれは、恐らくこのメールの差出人の名前なのだろう。何か特殊な読み方があるのか、それとも単純に「あだちたよし」「あだちたら」などと読めばいいのか、残念なことに僕の知識では分からなかった。
メールにはそれ以上の記載はない。添付ファイルもないようなので、送られてきたメールはたった今読み上げた内容が全てのようだ。
僕は、見覚えのないメールアドレスから送られてきたそのメールの内容のあまりの胡散臭さに、――思わず、大きく息を吐いた。
「なに、これ」
作品名:犯罪者予備軍の皆様へ 作家名:みなみ