町内会附浄化役
祥の言葉に押し出されるようにして、斎月は弥無を追って走り出した。
「すげえじゃん、斎月! 弥無を浄化できたじゃん。まだカンペキではないけど、いやい
やいやたいしたものだぜ」
御幣島の神がしきりに褒めてくれるが、斎月はあまり心躍らない。こちらに行ってはい
けない気がする。体が嫌がっているのだ。だけど走ることをやめたりは出来なかった。
だんだん弥無が濃くなってきた。斎月の嫌な予感はいや増す。角のコンビニを曲がった
ところで、弥無は留まっていた。
むせ返るような濃密な弥無の中に、一人の女の子が立っていた。その後ろ姿はとても
小さくて華奢で、丸まった背筋がなにか痛々しさを感じさせた。彼女のまとう弥無はする
どくて、しびれるようだった。その弥無にさらされているうちに、斎月は切なくてたまらなく
なる。
そして斎月は同時に気づいていた。それが、かつて彼女のよく知っていた少女である
ということを。
「怜子(りょうこ)ちゃん」
思わず上げた斎月の声に、彼女はゆっくりと振り返った。
「ひさしぶりね、斎月ちゃん」
怜子はおだやかにそう言った。
「ひ、ひさしぶり」
斎月の声が強張る。なにか他に言うべきことがある気がするのだが、その勇気が出な
い。
怜子の周りを取り巻く弥無は、明らかに尋常なものではなかった。その弥無を凝視し
ながら、斎月は固まってしまった。動かなければという気持ちと、動くことへの恐れが拮
抗して、斎月を動けなくしている。
「なにやってんだ、斎月。あの弥無を晴らしてやらないと」
御幣島の神がせっつく。でもどうやって?
「斎月ちゃん、浄化役になったのね」
怜子がふと笑みを浮かべる。その笑みを見て、斎月は胸が痛んだ。
「いいわね。あなたには神様がついてる」
続けて怜子は口の中でなにかつぶやいた。なぜか斎月には彼女が何を言っているの
かが分かった。
私には何もないのに。
「それでのこのこ帰ってきたわけか」
祥はのんきに缶コーヒーを啜りながら言う。
「……」
結局斎月は怜子の周りに渦巻くケガレを祓えなかったのだ。
「偉そうにさあ。祥だってヒトの弥無を晴らすのは苦手なくせに」
浦江の神が水を差す。
「そんなことを言うけどさあ、ほっといていいんかな。だってそいつ明らかに尋常じゃない
弥無をまとっていたんだろう?」
「まあな」
御幣島の神が言う。
「だけど、今日は斎月がケガレを祓ったってだけでもすごいことだよ」
「そうだよ。祥の時なんて……」
「それはもういいんだよ!」
祥は缶コーヒーをぐいっと飲み干すと、立ち上がった。
「まあ、今日のところは御幣島地区の浄化は済んだかな」
そうか、今日の仕事は終わったのか。よかったあ。解放される!
「あー、どうもお疲れさまでした。どうもありがとうねー、祥。じゃっ!」
「待てよ」
走り出そうとしたら、祥に服の襟首を掴まれた。女の子の襟首掴むって、どういうこ
と?
「この後、舞の稽古だろ?」
「ああ! そっかあ」
斎月はがっくりと肩を落とした。完全に忘れていた。もう、私には休日なんてないんだ。
「今日は一緒に行ってやるよ」
なにやら自慢げに祥が言い放った。今日一緒に行ってくれても、特にうれしくはないん
だけど。むしろお前さえいなければけろっと忘れて、家で漫画でも読んでいたのに。
「なにしてんだ? 斎月。おいてくぞ」
何だか知らないが、ものすごく祥に腹を立てながら、斎月は公民館に向かった。
「それで一日祥と一緒にいたわけね」
いつみは斎月にそう尋ねた。彼女は自分の部屋の中にいる時は、いつも堂々とパジ
ャマ姿だ。たとえ突然斎月が訪ねてきても着替えたりはしない。
「そだよー。あー、もう疲れた」
そう言って斎月は畳の上に敷かれたじゅうたんに寝転がった。下から見上げると、い
つみのパジャマに細かくプリントされたクマさんの下半身がぶっとくでかく見える。ちょっ
と丈の短いズボンをはいたいつみの足は、普段よりもすらっと長く見えた。
結局あの後、斎月はおとなしく公民館に向かい、浄化役の皆さんの熱血な舞の指導を
受けたのだ。ほぼみんなが舞を完成させたところで飛び込んできたこの新人は、皆さん
のやる気をいたく刺激したらしい。総掛かりでの指導だ。斎月はとってもやるせなくて、
恥ずかしくてつらくて、本当に逃げ出したかったが、今日一日はなんとか乗り切った。来
週はどうなるか分からないけれど。
「……何を居座る態勢を見せているのかしら?」
片方の眉をキレイに上げていつみは言った。
「ん?? だってえ」
斎月は部屋の中に転がっていたトラのぬいぐるみをぎゅーっと抱きしめて言った。
「貴重な日曜を祥に潰されたんだもん。なぐさめが欲しいの、慰めが」
いつみはあきれた様子でため息をつくと、くるっと斎月に背を向けて机に向かった。分
厚い参考書を広げて早くもお勉強モードだ。
つまらない、と斎月は思う。
「ねーねー、いつみちゃん、いつみちゃんは今年受験でしょー?」
「そうよ。分かっているのなら邪魔しないで」
しかも冷たい。
「やっぱりいつみちゃんは大学受けるんだねー。どこ受けるの?」
「地元の国立」
「……うへー」
いつみが頭がいいのは前から知っていたから、国立を受けること自体は別に驚かな
い。
でも、いつみは地元を離れないのだ。そういえばここら辺に住んでる人はあまり地元を
離れたがらない。いつみもそうなのだ。
「いつみちゃんなら東京の大学だって行けるでしょ?」
いつみは椅子をきしませて上半身だけ斎月の方に向けた。
「斎月は東京に行きたいの?」
「そりゃあねー。まああたしの場合、大学っても五流大学しか行けないだろうからー、な
んか東京にしかないような専門学校にでも行かせてもらうかなーって」
いつみはしばらく斎月を眺めていた。
「そう」
くるりと机の方を向いて、いつみはまた勉強を始める。
斎月はいつみのシャーペンを走らせる音を聞きながら、うとうとしかけていた。
すぐそこにいつみがいて、ふかふかの絨毯があって、暑い日差しやむっとする外の空
気からは守られた部屋の中にいる。
ずっとこんな毎日が続けばいいのに。
斎月は急にふと思いついて、目を閉じたままいつみに話しかけた。
「ねえ、次の日曜には、一緒にどっか行こうよ。そんで二人で映画とか見てソフトクリー
ム食べるの……」
きっと楽しい。
斎月の頭の上で椅子がきしむ音がして、いつみの声が降ってきた。
「無理ね」
斎月は目を開けて跳ね起きた。
「なんで?!?」
いつみはいたって真面目な顔で答えた。
「だって次の日曜は鷺州総出で本庄川の清掃の日だもの」
「……ええ!?」
「もちろん浄化役は全員参加だし、私も行かなくちゃいけない」
「せっかくの日曜なのに、炎天下でゴミ拾いですか」
「仕方がないわよ。我慢しなさい。もう浄化役になっちゃったんだから」
「雨降らないかなー。雨降ったら中止だよね?」
斎月がそう言うと、いつみは少し目を見開いて、少し口を引き結んだ。これは「おもしろ
い」という反応。斎月は知っている。いつみはあまり表情が動かない少女だと思われて
いるが、実はすごく顔に感情が表れる。