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町内会附浄化役

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8 悲しみと後悔の


 祭りの朝は早い。人通りの少ない午前五時半頃。明け方のほのかに明るくなりはじめた群青色の空。遠くから聞こえるスズメの鳴き声。時折聞こえる車の通る音。澄み切った空気は冷たい。
 寝起きで鈍った斎月の頭でもこの朝の雰囲気が美しいということは感じた。
「この時間帯が一番弥無の澄みきった時間なのよ」
 いつみはそう言って斎月の方を見た。いつみはすでにしっかりと神服を着ている。
「眠いのでしょう。別についてこなくても良かったのに」
「いやいや、別に眠くはないよ。うん」
 目をこすりながら斎月は答えた。
 祭りが始まってしまえば、町を練り歩く斎月と、神社で神事を行なういつみとは会う暇がない。
 いつみは今日行なわれる諸々の神事にそなえて身を浄めなければならない。斎月はそんないつみの様子を見ていようと思ったのだ。
「斎月の神楽舞も見れないかもしれないわ。残念ね」
「いや、ホントに見なくていいよ、むしろほっとしたよ、私は」
 いつみに見られていると思ったら恥ずかしくて踊れない。
「あら、なんとか宮入りの時は見られるように調整しようと思っているのに」
 そういうといつみは眉をすこし上げて笑った。
「御幣島はもう大丈夫ね、むしろ美津島の方が心配」
「大丈夫だよ、祥が一生懸命指導してたから」
 祥は智穏の穴を埋めるためによく頑張っていた。祭りの準備も人一倍していたし、浦江の仕事はもちろん、美津島の手伝いもよくしていた。
「そうみたいね、町会の人、みんなやたらと祥を褒めていたわ」
 いつみはそう言いながら、もう一度服装を整えた。
「あの子、町会の行事にずっと来ないわね」
 いつみは、その豊かな髪を一つにまとめながら、唐突に言った。それでも斎月には何のことかすぐに分かった。それはずっと斎月の心を占めていた問題だったからだ。
「怜子ちゃん? ……もう来ないかもしれないよ」
「それならそれに越したことはないのだけれど」
 いつみは冷たい声で言い放つ。
「大丈夫かしら」
 なにが? とは斎月も聞かない。それは斎月も不安だからだ。もう何度も怜子は人を傷つけている。それが簡単にやむとは思えなかった。もう一度怜子と会って話した方がいいのかもしれない。でもそれだけの勇気が斎月にはなかった。
「なにか嫌な予感がするの」
 いつみにそんなことを言われたら、斎月も不安がつのる。
「嫌な予感っていうのは……具体的にはどういう」
「予感なんだから、具体的なビジョンはないわよ」
 目をうっすらと細めていつみは斎月を見つめる。斎月は緊張して縮こまった。
「でも、大丈夫ね。私には斎月がいるもの」
「な、なにを言ってるの、いつみちゃん」
 斎月は不意打ちのセリフに顔を真っ赤にさせた。
「だって、斎月はとても立派な浄化役だもの。きっと斎月が私を守ってくれる。私は斎月を信じているもの」
 自分が立派な浄化役だなんて思ったこともない。ただ、やれって言われたから、自分なりにがんばってみただけ。立派にやれているとは思えなかった。だけど。いつみがそう言うなら、斎月も自分を信じてもいいような気持ちになった。
「じゃあ、私もお仕事をしてくるわ」
 朝日を受けて拝殿に向かういつみは、とても大きく、美しく見えた。

 昨日は夜遅くまで祭りの準備をして、朝も早く起きて、斎月の眠たさはピークに達しているはずなのに、心の中のなにかが強く斎月を支えていた。
 祭りだというだけで、町の雰囲気はまるで違う。人びとの浮き立つ心が、うずまく弥無となっていて、それが斎月の心にも影響しているのだろう。
 衣装に着替える。各地区の浄化役は他の氏子中とは違う色の法被を着る。彼らは神のいついた、特別の存在なのだ。だから彼らだけが山車の上に乗れる。実際には町会の適当なじゃんけんで選ばれただけの存在であっても、それに選ばれたからには務めを果たさなければならない。
「さあ、斎月ちゃん、そろそろ時間だよ」
 鈴木町会長の声を聞いて斎月は我に帰った。全く、本当に面倒くさい。こんなに面倒くさいとは思わなかった。だけどやるからにはちゃんとやろう。そうすれば自分も楽しめるんだということに斎月は気づきはじめていた。

 祭りというのは、弥無渦巻くカオスである。浄い弥無も、穢れた弥無もそこに溜まり、渦巻き、凝る。そこから生まれいずるものは未知だ。それは創造の行為なのだ。人びとの渦巻くパトスは、この土地に生きる人びとが前進を続けるための重要な原動力となる。
 朝から始まる道中では、山車で町中を練り歩き、最後に宮に入る。その道中でそれぞれの氏子の家を回り、お布施をもらう。道に出て山車を待つ人びと、口を開けて眺めている子ども、徐々に高まっていく街全体の弥無に触れていると、斎月自身の興奮もだんだん高まっていった。
 だんだんと高くなる太陽は、斎月の髪を焼き、下着と肌の間をじっとりと湿らせた。脳の一部が強い疲労感を訴えているが、それはとても遠くで鳴いているセミの声よりも気にならいほど、小さなことだ。
 町中を廻った後に、山車は神社に入る。宮入は祭りのメインイベントであり、町の興奮が最高潮に高まる時だ。
 鷺洲神社の前には、町中の人間が集まってきていた。祭り独特の興奮があたりに立ち込めている。
 斎月は心を凝らして町の弥無の様子を探ってみた。しかし正も邪もない混沌とした弥無の中で、あの怜子の独特の弥無を探るのは難しく、斎月には怜子がこの場に来ているのかどうかすら判然としなかった。斎月は弥無を探るのをあきらめた。今はこの祭りに集中しよう。
 宮入の順番は四番目だ。もう一組目の山車の宮入が始まっている。いつみは見に来ているのだろうか。さっきは抵抗したが、本当は見ていてほしいような気もする。
 一番目は磯上さんが乗る山車だ。さすがに磯上さんは馴れたもので、緊張している様子もない。担ぎ手の子どもたちも、若頭も手順をよくわきまえていて、一糸乱れず勢いのある宮入である。独特のリズムで打ち鳴らされるお囃子は御幣島の神楽と同じはずなのに、勇壮な気がする。多分気圧されているだけだけど。
 宮入の順番がどんどん近付いてくる。斎月の胸が暴れだす。ひときわ大きく太鼓が打ち鳴らされた。それを合図に山車が動きだす。ふっと息を吐いて斎月は舞いはじめた。目まぐるしく流れさる風景、鳥居がいつもとは違う高さで斎月に迫ってくる。
 境内にも人が詰め掛けていた。押し寄せては引き、渦を巻く弥無。荒れ狂う弥無の洪水の中で、斎月は自分の弥無が高まっていくのを感じていた。
 高まる喧噪と自身の高揚の中、斎月は目の端に白い人陰を捉えた。拝殿の脇に一際目立つ純潔の色。いつみちゃんだ。
 斎月は急に目の前の景色が色を変えたのを感じた。目が午後の光をめいっぱいに受けて、世界を彩る。自分の周りを弥無がうずまいているのが見えた。拝殿の前まで来て、御幣島の山車は止まる。沸き立つ歓声。息の上がった斎月は、その中心にいた。心地よい疲労感が斎月を包む。いつみがにっこりと微笑んでいるのが見えた。いつみは役割があってこっちまでは降りて来れない。斎月はいつみに笑顔を返してから、振り返り、正門の方向を見る。
作品名:町内会附浄化役 作家名:つばな