雨の記憶
貴人は分からないようだ。
「ちょっと待ってよ。“虹”、分からない?」
祐斗の問い掛けに、貴人は眉間にしわを寄せて首を振る。
「有り得ないっしょ!」
ガタガタと席に戻り、ペンケースから蛍光ペンを取り出し、ノートの端に下から紫・ブルー・黄緑・黄色・オレンジ・ピンクと弧を描く。
「こーゆーの!」
書き終えて、そのまま貴人の方へ向ける。と、
“バサッ!!”
物凄い勢いで、ノートが机の上から振り払われた。
「た、貴人!?」
「ごめん!!」
祐斗がノートを拾う。その前で、小刻みに震えている貴人。
「どうかした?」
「ごめん!」
心配そうに覗き込む祐斗に、貴人が俯いたまま呟く。
「……それ……、見たく……ない……」
尋常でないその様子に、祐斗が慌てる。
「大丈夫? 保健室、行く?」
「……平……気……」
一文字に結んだ口元に手を当てたまま震える貴人の腕を引っ張り、祐斗は保健室へと向かった。
降り止まない梅雨の雨が小雨へと変わった午後。二台並んだ自転車が、学校を出て行く。
「貴人」
少し前を走る貴人の背中に、祐斗の声が当たる。
「危ないよ。バスで帰ろう」
貴人を保健室へ連れて行ったのは昼休み。午後の授業はそのまま保健室で休む事となった。放課後のチャイムと同時に駆けつけた祐斗が止めるのも聞かず、翌日の登校がバス通になるのが面倒だからと言い張って自転車で帰り支度を始めた貴人に祐斗が付き添う。
「貴人!」
不意にスピードを増した貴人の自転車に、祐斗が必死で付いて行く。
ハンドルを握る貴人の手が震えている。
そう。あれからずっと、この震えが治まらないのだ。
『母さんに会いたい!』
その想いが、貴人を動かしていた。
記憶を失くしてから初めての梅雨。事故の事を思い出すのが怖いのだろうか……。痛みの記憶も残っていないと言うのに、とてつもない不安が貴人を押し潰そうとしていた。母に会えば、母の声を聞けば、全てが治まる気がして、ペダルを踏む足に力が入る。
「貴人、危ないよ! も少しゆっくり行こうよ!」
後ろで祐斗が言えば言う程、不安が増加し母への想いが募っていく。