春に降る雪
眠い目を擦りながら少年が抗議する。まだ眠っていたいらしく、母親に抱えられている布団を取り替えそうとしている。
「うるさいじゃないよ、こんな天気いいんだからいつまでも寝てるんじゃないの!そういえば大樹あんた、最近春ちゃんのとこ行ってないんだって?」
ベッドの横でベラベラ話す母親の声が耳障りで仕方が無い少年は窓辺の方に目を向けた。眩しい光が目に入って、少し涙が出た。
「あんたたちケンカでもしたの?」
「…別に」
「あ、そう」と言うと母親は少年の布団を持ったまま窓辺に向かい、ベランダに出ると物干し竿にそれを干した。布団のおかげで光はだいぶ防ぐことが出来たが、少年はもう眠ることは出来ない。
「春日ちゃん寂しがってんじゃないの?」
他の洗濯物を干しながら母親が言う。そうしながら洗濯物をハンガーにかけ、バシバシ叩くと小さな水の粒が跳ねる。嫌々ベッドから起き上がったはずの少年はその様子を食い入るように見つめていた。
「・・・あった。春に降らせる・・・雪」
その日、放課後に教室を見回っていた西田先生は、三年一組の教室の前でふと立ち止まった。
「大樹君、まだ残ってたの?」
教室には、机に座りながら何かを手に持った少年がいた。
「先生こそ、帰んないの?」
西田先生は、最近とても学校が楽しくて仕方が無いのだ。そう言うとまるで小学生のようだが、本当に楽しい。三十六人の生徒達の個性もだんだん見えてきたし、もうすぐ迫っている運動会のために皆団結している。先生はこの明るくて、笑いの耐えない三年一組が大好きなのだ。
「先生はね、まだお仕事が残ってるから帰れないのよ。あら、それってティシュペーパー?」
しかし、西田先生の嬉しい一番の理由はこの頃ずっと暗い顔をしていた少年がやっと笑顔を取り戻したことかもしれない。
「うん、ってゆーかこれじゃ駄目だった」
少年の隣の席に座った西田先生が、少年の机にあるティシュペーパーを指して訊ねた。
「これじゃ駄目って?」
不思議に思った西田先生が首をかしげてみせると、少年は先生を見て得意そうに笑った。それは先生が大好きなものの一つだった。
「オレさ、雪を降らせるんだ!」
「…ゆきぃ?…でも大樹君、今は春よ?」
「春日が見たいっていうから作るんだ。あの病室の窓から見える、春に降る雪!」
その春日という少女は、以前桜田先生が言っていた入院中の子だと西田先生はピンときた。その少女の話をしている少年は、いつもより頼もしいお兄ちゃんの顔になる。
「全く、ワガママで困るよな」とグチを言いながらも少年は楽しそうに真っ白の紙を取り出し、それをキレイに折り曲げはさみを入れていく。
「…それが、春に降る雪のもと?」
「そう。水とティッシュでやったら失敗したから」
少年は白い紙で小さな正方形をいくつか作り、それを握った手を上に上げて、手を離した。白い紙が先生の前でヒラヒラと落ちた。
「キレー…あ、ねぇ大樹君、その紙先生にも貸して?」
そう言うと先生は正方形のかみを半分に切って、先程の少年と同じようにして手から紙を落とした。
「先生も春の雪作り協力させてよ!」
西田先生がそう言うと、少年は先生にニッコリと微笑んだ。
「柴田さ~ん」
久しぶりに聞く元気で大きな声に看護師の柴田さんは振り向いた。
「久しぶりね、大樹君♪この頃全然来なかったから風邪でもひいたかと思って心配してたのよ」
向かい合うために柴田さんが膝を折ってしゃがむと少年は息を切らして、その場で駆け足をしていた。ランドセルを背負う少年の手には何か白いビニール袋を持っていた。
「オレは元気!そんなのいいからさ、春日に伝えてほしいことがあるんだ」
「春日ちゃんの所に行かないの?」
「後で行く!だからさぁ春日に“今から雪降らせるから窓見とけ”って、伝えてよ!」
それだけ言うと少年は全速力で柴田さんの前を通り過ぎていった。
「…春に雪?」
不思議そうに呟いた柴田さんだったがとりあえず少女の病室に向かった。クリーム色の扉を開けると、ベッドに座った少女が退屈そうに唇をへの字に曲げていた。
「…柴田さん」
「気分はどう?今ね、そこのナースステーションに大樹君が来てたの」
その言葉に少女は目を見開き、柴田さんに駆け寄った。
「大ちゃんが来てたの?まだ近くにいる?あたし、大ちゃんにあやまらなきゃ!」
目に涙を溜めながら必死に柴田さんを見つめる少女に、柴田さんは静かに言った。
「その大樹君がね、春日ちゃんに“雪を降らせるから窓を見ていてほしい”って。私に言いにきたわ」
その言葉に、少女は凍りついたように固まった。柴田さんはてティッシュペーパーを手に取り、涙で濡れた頬を優しく拭いた。震える肩にそっと手を置き、少女を窓の近くまで連れて行った。
「…春ちゃん、ちゃんと見てよう。大樹君きっと春ちゃんのために雪を降らせてくれるんでしょ?」
窓を見つめた少女の肩が再び震えだした。そうして少女は、小さな声で、ポロポロと話し出した。
「…雪、大好きなの。いつも雪が降ると嬉しくて外に出て、入院しちゃうんだけど・・・大ちゃんがね、雪だるま見せに来てくれるの」
その話を聞いた柴田さんは、とても優しい気持ちで、少女を後ろから抱きすくめた。その時、二人の目の前にある窓からチラチラと白いものが見えた。
「…雪だ!柴田さん雪が降ってる!」
小さな手が、柴田さんの服を引っ張る。その顔は、今まで見たこともない花が咲いたような笑顔だった。
「春ちゃん、雪だ!雪が降ってる!大樹君が降らせてくれたんだ」
嬉しさのあまり抱き合う二人の目の前の窓からは、小さな三角形の白い紙がヒラヒラと舞い踊っていた。光の角度によって、キラキラと輝くそれは春に降る雪だった。
雪が全て降り終わっても、二人の興奮は収まらなかった。そうしている間に少女の病室のクリーム色の扉が開いた。
「…大ちゃん、ごめんね、ごめんねあたし、ワガママ言って」
涙を頬に伝わせながら少年に近づく少女の肩を掴み、少年は今までで一番頼もしい笑顔を見せて言った。
「雪、見ただろう?オレちゃんと約束守ったから、春日もちゃんと守れ」
未だに涙を止められないでいる少女に、少年はもう一度強く、少女の肩をつかんで続ける。
「いいか春日、ワガママだったらいくらでも聞いてやる!だから春日はしっかり病気治せ!それは春日にしか出来ないから」
何度も何度も、大きく首を縦に振ってうなづく少女を小さな体で抱きしめた少年が、柴田さんにはとても頼もしく見えて、笑った。
「…大ちゃんったら、カッコいいんだから」
「…っとゆーわけで、明日から冬休みに入るんだけど、皆夜更かしなんかしないように」
十二月。三年一組の教室では、担任の西田先生が寒さにも負けず、白い歯と明るい笑顔で生徒達に話していた。生徒達は楽しい冬休み、これから始まる数々のイベントに胸を躍らせ、興奮しながら話を聞いていた。