春に降る雪
「大樹、あんた走って落とすんじゃないよ!」
「ねぇ大樹君、春日ちゃんてどんな子なの?」
病院に向かう途中、桜田先生の言葉に危なっかしい手つきで大きなケーキの箱を抱えた少年は答えた。足元が少々おぼつかない少年はケーキの箱を抱えながらあっちへこっちへふらふら歩く。実は桜田先生は先程からそれが気になって仕方が無い。
「会えば分かるよ」
「ねぇ大樹君、それ、危ないから先生が持っていってあげようか?」
「いいよ。オレが持っていくって言ったし」
それだけ言うと、少年は桜田先生の少し前をさっきより強めに箱を抱えて歩き始めた。
二人が病院に着いたとき、少年の母親と少女、それから少女の母親がいて、部屋の中はおいしそうな料理とお菓子が並んでいた。
「大ちゃんおかえり♪」
いつもより嬉しそうな声で少女が言いながら、少年のもとへ近づいてきた。
「春日、ほらケーキ買って来たぞ」
「大樹あんた落とさなかっただろうね?」
「大丈夫!」
二人の会話を楽しそうに笑う少女を桜田先生はとても可愛らしいと思った。細身ではあるけれど、素直で元気に飛び跳ねてみせる少女が早く学校に出てこられることを願った。
「春日ちゃん、早くみんなと学校にいけるといいわね」
「うん♪春日も早く学校行きたい」
楽しい笑顔が溢れる中、皆幸せを感じた。けれども現実とは、そう上手くいくものではないということを少年は後から思い知らされた。
「ねぇ大樹君、落ち着いて聞いてね?春日ちゃん、手術を受けなきゃいけなくなったの」
看護師の柴田さんの言葉に、少年は石化した。柴田さんはそれを察してか優しく微笑み、少年に言った。
「あ、でもそんなに難しいものじゃないの。手術すれば、必ず良くなるのよ?」
桜田先生と一緒に病院へ行った頃からだろうか、少年は暗い顔をするようになった。時折ため息をついてはバシッと頬を叩いて笑顔を作る。
「大樹君、どうしたの?」と、西田先生が優しく訊ねてみても「なんでもねぇよ」の一点張りで、何も教えてはくれないし、おまけに帰りの会が終わると前より更に猛スピードで帰ってしまうのだ。いつも元気で笑顔の絶えない少年だけに、西田先生はとても心配になって、桜田先生にそれを訊ねてみたが、全く分からなかった。少年は今日も、ランドセルを背負い込み急かされるように教室を出た。
「春日~!」
クリーム色の扉を開ける時、少年は笑顔で少女を呼んだ。少女は今日も奥のベッドにいて、少年の声を聞くとすぐさまベッドから飛び出してきた
。
「大ちゃん、おかえり~♪」
「今日は元気そうだな」
薄いピンク色のパジャマを着た少女は、桜田先生と会ったときよりも更に痩せ細っていた。
「あたしいっつも元気だよ?」
そう言って小さな木の枝のように細くなった手足をブラブラと揺らしてみせる。
「ねぇ大ちゃん、あたし元気だよ?だから、手術受けなくてもいいよね?」
瞳に涙を溜めた少女が、少年を見つめる。細く、力のない手で必死に少年の手を掴む。その少女を見ると少年はいつも何も言えなくなってしまうのだ。
「春日、今よりもっと元気になって、学校に行くために手術受けよう?オレ春日が手術受けてる間ここで待ってるから」
少年がそう言い聞かせても、少女の涙は止まらなかった。少女は頬に伝う涙を拭わずに、涙交じりの声で少年に衝撃的な一言を浴びせた。
「大ちゃんは、大ちゃんは春日じゃないから、手術受けないから、春日の気持ちなんか分かんないよ!」
少女は一人っ子だったし、病弱のせいもあり、ワガママな所があった。しかしそれは、まだ年も小さいし“ご愛嬌”という言葉で許されていた。
少年は幼馴染の少女をまるで妹のように可愛がって面倒をみてくれていたし、少女は誰に怒られることもなく、自由にワガママを振舞うことが出来た。
「春日~!」
クリーム色の扉を開けながら少年が少女を呼ぶ。いつものように笑顔で少年に駆け寄る少女の姿はなかった。
「春日~、どうした?寝てる?」
少し心配になった少年が少女のベッドに駆け寄ると、ベッドの上に座った少女が真正面を見つめて黙っていた。
「…大ちゃん、あたし雪が見たい。」
「…ゆき?」
真正面を見つめたままの少女が、ポツリと呟くように言った。その言葉の意味が、少年にはよく理解出来なかった。
外は今日もよく晴れていて、緑の木々が覆い茂っていた。部屋の窓からは温かい日差しがあたっていて、少し眩しい。
今はもう五月だ。雪なんて、降るはずがないのだ。
「…春日、今はもう春だ。雪は、冬になったら見れるよ」
「…あたし、雪が見たいの。今雪が見れたら、大ちゃんの言うこと聞くよ。だから、大ちゃんが雪を降らせてよ」
そう言う少女の言葉に、少年は言葉を失った。少女の目は涙で揺れながらも堅い決意を表していた。
「…じゃあ、オレが雪を降らせたら、春日は手術うけるんだな?」
「…いいよ」
少女の言葉を聞くと、少年は一言「分かった」と言うと静かに少女の病室を出て行った。
ベッドの上に座った少女は一人、布団の中にある膝の辺りを見つめ、黙りこんでいた。
「…大ちゃん、怒ってるかな?」
そう呟いて、少女はまた黙り込んだ。以前は毎日欠かさず少女の所へ見舞いに来ていた少年は数日前からパッタリと少女の前に姿を現さなくなった。少年が少女の所へ来た最後の日、少女は少年に「雪が見たい」と言った。
今は五月だ。雪が降るはずがない、ということはいくら6歳の少女でもなんとなくは気づいている。だからといって少年にイジワルをしたわけではない。ただ、間近に迫る手術が恐ろしかった。どうにかその恐れを取り去って欲しかった。それで、大好きな雪が見たいと少年に言ったのだ。雪を見れば手術に対しての恐れがなくなる気がしたが、単なる八つ当たりだったような気もする。
少女がベッドで一人、黙り込んでいる間、少年も同じように一人で黙りこんでいた。しばらく少女の所に行ってはいなかった。ケンカをしたのではない、ただ、行けないのだ。
「…大樹君、何かあったの?」
心配した西田先生が声をかけたが、少年は一言「何もないよ」とその場限りの笑顔を作って言うので、西田先生にはどうしようもなかった。
廊下ですれ違った桜田先生が少年に「大樹君、春日ちゃんの所にしばらく行ってないんですって?」と聞くと少年は黙り込んでしまった。「ケンカでもしたの?」と心配になった先生が聞くと「今はまだ、行けないんだ」と少年は答えるのだ。
放課後になると少年は足早に図書室に向かった。本を探し、ページをめくってはため息をついた。
「…雪…ねぇな」
そうして少年はまた別の本を探し始めた。少年はまだ、春の雪の降らせ方を思いついていなかったのだ。
「大樹、あんたいつまで寝てるの?もう十時過ぎてるのよ!」
ある日曜日。少年の部屋に来た母親はそう言うなり未だにベッドで夢の中にいる少年の布団を思いっきりはいでみせた。
「…うるさいなぁ」