春雨 05
「べつにー」
言いたいのに言う気がないのか、彼女は視線を向こうに向ける。なんだよ、気持ち悪いな。俺がめぐみと付き合っていないって宣言した事で得をすることなんて何もない。
「それより克哉、私もあなたに聞きたい事があるんだけど」
急に落とした声に横を見ると、めぐみは真剣な目でこちらを見ていた。
「…なんだよ」
言いたい事はだいたい想像がついた。でも素知らぬ振りをする。
「彩花と会ってたって聞いたんだけど、本当?」
『克哉はどうして私のそばにいてくれるの?』
『勝さんがね、今日は一緒にご飯食べようって!』
『もう私たちだめかもしれない。どうしよう…』
『私は勝さんじゃなきゃだめなの。どうしてもあの人でなきゃだめなの』
『ごめんなさい。私、卑怯な女だよね。あなたと一緒にいても、別の人の事考えてる』
『ねえ、明日会える? お願い、助けて』
「会ってたのは本当」
めぐみが何か言おうと口を開く。しかし俺はそれを遮る様に言葉を続けた。
「でも別になんにもねえよ。また勝先輩とケンカしたみたいで、愚痴聞かされて帰っただけ」
「…本当に?」
「嘘なんか言ってねえよ。俺だって他人のものに手を出す程落ちぶれちゃいな…いや、お前のことは関係ないよ。悪かった」
めぐみの睨む様な視線を感じて俺は謝った。本当に、めぐみのことは関係なかったんだけどな。
すっかり機嫌を損ねたのか、彼女はボート乗り場の方へ歩いていってしまった。
俺は溜め息を付くと、近くにあったベンチに腰掛ける。ズボンのポケットに手を伸ばすが、目的のものはなかった。そういや、禁煙しようと思ってたんだっけ。
彩花とは、本当に話を聞いただけだ。確かに向こうが泣いて抱きついたりしたけど、その時ちょっと背中に手を回したりしたけど。それ意外は何もない。
…なんで言い訳してるんだ。
何かがあった方が良かったかと聞かれれば、答えに詰まる。あいつの泣き顔を見てると何とかしてやりたいと思う。俺ならこんな風に泣かせたりしないのに、と勝先輩のことが恨めしく思う時もある。
でも、一度俺はそれで失敗しているから。
それでもいいと大見得切って、力ずくで彩花を自分のものにして。
確かに彼女を大事にしてた。それはまるで腫れ物でも触る様に。誰よりも近い場所で彼女を見守っていた。
そして気が付いた。彼女が泣いたり喜んだりするのはのは、勝先輩のためだけだということに。
俺のものには決してならないという事に。
別れて、けりを付けるつもりだったのに。それでも彩花のことばかり考えている自分。今でも彼女に必要とされたら、きっと構わず飛び出していけるだろう。
そんな自分が馬鹿だと思う。けど、俺は、きっと彼女のことは忘れられないのだろう。
「あ、やっとついたよー」
少し耳に付くでかい声が聞こえてきた。見ればそこには、高橋の姿。
「おまえら何やってたんだよ」
立ち上がってかけた声に、高橋がびくっとしたような顔をして、俺を見る。
? 俺、そんなに怖い顔をしてたのか?
「高橋が道間違えたのよ。ったく、どうしようもないんだから」
彼の後ろから着いてきていた京子が俺に向かって言う。相変わらずの毒舌だ。
高橋はそれにも怯えている。どうやら車の中でもずっとこの調子で言われていたようだ。後ろから来た美智と高梨が目を合わせて苦笑している様子が見えた。
京子の毒舌には俺も昔さんざん言いくるめられたことがある。
少し同情した俺はさっきの態度を改めた。
「まあ、何事もなくて良かったよ。おまえらだけ遅いから心配してたんだよ」
「嘘付け、あんたさっきぼーっと座ってたじゃないの」
京子のつっこみに俺は口をつぐんだ。最初は本当に心配してたんだよ。
「あ、みんな着いたのね。高橋くん、お疲れ様」
上手いタイミングでめぐみがこちらに戻ってきた。その後ろには徹の姿が見える。
にっこりと笑いかけられた高橋は顔がうっすらと赤くなっている。しかし俺にはめぐみが笑っているようにはみえない。大方徹を避けるためにこちらに来たのだろう。目が笑っていない。まあ、俺のさっきの態度に怒っているのもあるのだろうが。
そんなことなど知らない高橋はめぐみに「ボート乗らない」と誘われ真っ赤になっている。徹はその後ろで恨めしい顔をしているし。京子は彼らにむかって舌打ちしている。
なんで、こんな状況になってるんだ。
ふと横を見れば、美智と高梨があっけにとられたような顔をして眺めていた。
彼らも俺と同じ様に急に起こった状況について行けないようだ。
それにしても、2人とも同じ様にぽかんと口を開けている様子はなかなか滑稽だ。
「…っ」
俺が小さく吹き出すと、隣にいた美智がめざとく気が付いた。
「先輩、今度は何ですか?」
慣れたもので俺が自分の何かに対して笑ったと分かったようだ。これで理由まで分かればいいパートナーになれるだろうに。まあ、そこまではさすがに無理か。
「いやあ、別に~」
「どうせ変な顔だって思ってたんでしょう?」
…意外と勘が鋭い。
「よく判ったなー」
「やっぱりそうだったんですか?! ひどいー」
少し頬を膨らませて拗ねた振りをする。こいつはからかいがいがある。
「なあ、美智、ボート乗らない?」
少し離れた所にいた高梨が美智に声をかけた。美智はなぜかそこでびっくりしたような顔をする。
「へ?」
「いいから、行こうぜ」
こちらへ来て美智の前に立った。美智はなぜかうろたえた顔をして、俺の方を見る。
なんか、さっきも似た様な事があったな。
それにしても高梨は美智狙いか、全然気付かなかったなあ。
「行ってきたら? 折角だし乗らなきゃもったいないだろ」
「先輩は乗らないんですか?」
「いや、俺はいいよ」
「何言ってるんですか! 乗らなきゃもったいないって今言ったじゃないですか!」
にっこりと笑った美智の向こうで、高梨も笑う。
「そうですよ、鷹凪先輩も一緒に乗りましょうよ。4人乗りって舟もあるみたいっすよ」 確かに彼の指さす先には『ボート乗り場 2~4人乗りあります』と書いてある看板が見える。それって、俺と3人で乗るってことか? 高梨はそれでいいのか?
しかしよく考えたら高梨だって普通に美智の事を誘っただけかもしれないよな。
「さ、行きましょう!」
美智は俺の腕を掴んで連れて行こうとする。触れた手に一瞬びっくりしたことは、美智には気付かれなかったらしい。だが高梨がちょっと目を見張ったことに気付いて、そっと彼女の手を離す。
ボート乗り場に向かう途中で、高梨が俺のそばに寄ってくる。
「俺、美智は止めた方がいいですか?」
…だから、何で俺にそれを聞くんだ?
視線で睨んだら、彼は口の端だけをあげて笑い、小走りに走っていった。
なんか、また新たな誤解が生まれた気がする…。
結局変な気をきかせた高梨の手によって、俺は美智と2人でボートに乗る事になった。
「わあー、気持ちいいですね」
俺と美智は向かい合って、2人乗りのボートに乗っていた。