春雨 05
覚えているのは、
たった一筋、
流れた涙
「あ、先輩、おはようございます」
「ああ、おはよ」
俺は目の前から歩いてきた彼女の顔を見る。
べつにいつもと変わらない顔だった。
彼女は俺が黙ってじっと見ていることに気が付いて一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに香たちがいる方へといってしまった。
なんとなく拍子抜けして、俺は手に持っていた雑誌に再び視線を落とす。
「克哉! はよ」
再び雑誌から視線を上げると、目の前には同じクラスの森崎徹が立っていた。何かいいことがあったのだろうか、顔がにやけている。
「おお、朝から機嫌良さそうだな」
「ああ、実はさ昨日めぐみにデートの約束取り付けたんだ」
「え? めぐみオーケーしたのか」
俺は信じられなくて奴に問いただした。めぐみは誰とも付き合うつもりはないと言っていたのに。
「ああ、明日だぜ。克哉、残念だったな」
徹は俺が驚いた理由を勘違いしたらしい。俺たちはそんなんじゃないって何度も話したのに、徹は信じようとしない。
「ふ~ん」
俺はめぐみが誰にもなびかない理由を知っている。それは多分、サークルのメンバーでは俺しか知らないことだろう。めぐみの男避けを放棄した手前、えらそうなことは言えないが、たとえデートでもあいつは受けないと思っていた。やけになっているなら止めた方がいい。めぐみにも、森崎にもいい結果にはならないだろうから。
「克哉、そろそろ時間よ」
当の本人が遠くから声をかける。
横の森崎は相変わらず鼻の下が伸びっぱなしだ。
俺は小さく溜め息をついて、車へと向かった。
今日は、山へドライブと湖でボートに乗ろうの企画だった。
だから、本当にこの恥ずかしい企画名はなんとかならないだろうか…
とにかく俺たちは数時間のドライブの末、山の中にある大きな湖に辿り着いた。
車を駐車場に止めると、都会では味わえない自然の空気が充満していた。俺は運転で疲れた肩を大きく回しながら、湖の方へと歩いていく。同じ車に乗っていた後輩達は、ここに来る途中で、湖の端を通って来た時に先に降ろしてきた。駐車場までは少し距離があって、少し高い所にあるから湖の全景が見渡せた。湖に太陽が反射してなかなか綺麗だ。あとであいつらに教えてやろうと思う。
湖に着くと、先に付いていた奴らは早速ボートに乗っている奴がいる。気が早い。
ボート乗り場に俺が着いた時には、もう列が出来ていた。
少し離れた所にいためぐみに声を掛ける。
「お前は乗らないのか?」
「ああ、まだ着いてない車がいるの。みんな揃うまでここで待ってようかと思って」
「着いてない? 誰だ?」
「高橋くんの車よ。京子が乗ってるから大丈夫だと思うけど…」
そういって視線を駐車場の方へと向ける。そういえばあいつの車はなかったな、と思い出す。
電話を掛けようと携帯を開くが、残念ながらこの山のなか、携帯は圏外だった。
「…まあ、子どもじゃないんだし、場所もきっちり分かってるだろうから、大丈夫だと思うけど…」
高橋は一年で、まだ入ったばかりだった。車を出すのは初めてではないが、少ない方だったと思う。慣れない道に迷ったのだろうか? しかし一緒に乗っているという京子は俺たちと同じ年で、去年もこの湖に来た事があるし、ナビも上手い方だから多分大丈夫だろう。
あとは車だと事故の可能性もあるが…
「他に乗ってるのは?」
めぐみは車の割り振り表を見る。彼女の細い指はそれをたどり、一カ所で止まった。
「あ、美智ちゃんと高梨くん」
…またあいつもやっかいな車に乗り合わせたもんだ。
舌打ちをしてふと横を見ると、めぐみが何かいいたげな視線で俺を見ていた。
「何?」
「…ううん、何でもない。それよりどうする? 何かあったら…」
「なあなあ、めぐみ! ボート一緒に乗らない?」
何とも言い難いタイミングで徹が声を掛けてきた。めぐみの顔が一瞬ひきつるのが分かる。
はあ、なる程ね。デートなんて出来すぎてると思ったが、きっと徹の粘りに仕方なくめぐみが折れたんだろう。察しが付く。
「…いえ、でも私はいいから。そうだ! 克哉と乗ってきたら?」
お鉢がこっちに回ってくる。
「ええー! 野郎同士でボート漕いでも楽しくないよ!」
そうだな、俺もそう思う。
「でも…」
めぐみの助けを求めるような視線。だからそういう目をするから俺が誤解されるんだって。
今まで黙って素知らぬ振りを決め込んでいたが、2人の視線がこちらに向いてそうも言ってられなくなった。
この場は、助けるべきだろうか?
「…あー、めぐみは先約があるだろ。徹も明日があるんだから今日はがっくつな」
もちろん後半はこっそりと徹だけに言う。ちなみにめぐみの先約の話しはでっちあげだ。「え~でもなあ」
「ほら、香がこっちを睨んでるぞ。今日は我慢しとけって」
その一言が聞いたらしい、徹はしぶしぶその場を離れた。香のめぐみへの熱狂ぶりは知らぬ者がいない程有名な話だ。そして大抵の男は香の強引さに押されている。彼女に対抗できるのは幼なじみの聖くらいだろう。いや、あれは対抗しているというよりは聖の香に対する扱いが上手いと言うべきか…。
めぐみは小さな声でありがとうと言った。
「それよりお前、デートってどういうことなんだ?」
「ああ、あれは…毎日メールとか電話とかしつこくって。仕方なく一度デートする約束をしたら、大人しくなってくれたの」
そんなにすごかったのか、徹も意外と一途らしい。好きな相手にそうされれば嬉しいのだろうが、相手の事を何とも思っていなければうっとうしい事この上ない。めぐみは心底嫌そうな顔をしている。
もてる人間というのは大変だ。うらやましいことではあるが、こいつを見ていると他人事で良かったとも思う。
「あんまり期待もたせる様な事するなよ。お互い困るだけだろ?」
俺の言葉にめぐみはふっと横を向いた。言われなくても分かっているということだろう。 めぐみにはずっと想っている人がいる。相手もめぐみの事が好きだ。
でも、それを他人には知られてはいけない関係。
俺はたまたま偶然にその現場を見てしまったから知っているだけだ。公にすることが出来ないから、男避けが必要だった。つい先日まではなぜか俺がそれを担っていたのだが…
「誰かさんが余計な事を言わなければこんなことにはならなかったのにね」
彼女にしてはきつい口調が帰ってくる。まあ、こちらが素なのだろうが。
「あれは悪かったって言ってるだろ。もう勘弁してくれ。飯だって奢ってやっただろ」
そう、あれのおかげで一週間も昼飯を奢らされるはめになったのだ。こちらだって学生の身、金銭的に余裕なんてない。それが分かっているのに、敢えて高いものばかり頼むのだ。俺が悪かったのだが、さすがにあそこまでされると文句の1つもいいたくなる。
優しくて良く気が付くめぐみ先輩、と思っている奴らに見せてやりたい。
「でも、何で急に本当の事言う気になったの?」
「別になんとなくだよ。あんまり男どもがうるさいから…」
「それだけ?」
見ると、めぐみが何か言いたげな視線をよこしていた。
「『それだけ』って、他に理由があるとでもいうわけ?」