湾岸の風〜テルの物語
ごはんを食べさせてもらった後、土埃だらけになった白いドレスを脱いで、私はエレノアが貸してくれた新しい服に着替えていた。サイズが私にぴったりだから、エレノアの服を借りているわけではなさそうだった。彼女は長身で迫力のある美人で、豊満な胸の谷間がまぶしいくらい。そんな人の服が、今の私に合うわけがない。
「ごめんね。あたし、てっきり、あの子が行き倒れてたあんたを勝手に拾ってきたんだと思ったの。あの子はそういう癖があるから」
行き倒れはともかく、浜で勝手に拾われてきたことは確かに事実だと思うんだけど、目を覚ました私に詫びるエレノアは、なにか他の事情があると思っているらしかった。いったい「あの子」は美人のお姉さんになんて説明したんだろうか。
エレノアは綺麗で、気さくで、誰からも好かれる親切な近所のお姉さんみたいな雰囲気を持っていた。相談すれば何でも一緒に考えてくれて、泣いていたら頭をよしよし撫でてくれそうな。
イルスがそうしてもらっているところを想像して、私はなんとなく嫌な気分になった。
「なんかヤバい事情らしいじゃない。神殿から隠れてるんですって? まったく洒落にならないわよ。猫ならともかく、そんな厄介者を預けに来てさ。どうするつもりなんだか……」
悪口を言われているのに、なぜかあまり責められている気がしない。お母さんに文句を言われているみたいで。エレノアはにっこり華やかに笑って、私の手を元気づけようとするみたいに握った。暖かい手だった。
窓の外は夜になっていた。私たちは一人用のベッドに並んで腰掛けて、姉妹のように話していた。
部屋の、花が飾られた窓には、小さな灯りがいくつも点されていて、窓の外に見えるたくさんの窓々にも、同じように夢のような花と灯りが飾り付けられている。まるでお祭りの日みたい。
「ここは、あたしの禿(デーデ)の寝室よ。空き部屋だから自由に使っていいわ。あっちの扉は廊下に出るし、こっちの扉はあたしの部屋の控え室に続いているからね。廊下には誰がいるかわからないから、あまり出ないほうがいい。あたしの部屋には、あたしが一人のときには自由に入ってきていいわよ」
「ここは娼館(ルパーナ)だって……」
私は、握ってもらった手を握り返していいかどうか、決められないまま、小声でたずねた。
「そうよ。でも心配いらない。あんたに客をとらせたりしないから。女を守るなら、ここが一番なの。誰もあんたの素性を勘ぐったりしないわ」
可笑しそうに、エレノアが先回りして言った。
私はそれを心配していたんだろうか。
「イルスは帰ったの?」
目を覚ましたら、彼はいなくなっていて、私は一人で食事をしたのだった。
「夜警隊(メレドン)の連中のところに顔を出していたのよ。あれでもいちおう、隊長だからね。もう戻って、隣にいるわ。会いたい?」
私はとっさに首を横に振っていた。会いたいかどうか、自分では良く分からなかったんだけど。
「イルスは、よくここに来るの?」
「そうね。眠れなくなったらね。猫に会いに来るのよ」
それはたぶん違う。彼は、この女(ひと)に会いにくるのだ。そんな気がした。握ってもらったエレノアの手の、優しいぬくもりが、それが真相だと語っている。
「テル、あんた、帰るところはあるの? 行く宛は?」
私はまた、黙って首を横に振ってみせた。私はこの世界で、自分がどんな物語を語るべきなのか、いまだに分からないでいる。
「心配しないで、ほとぼりがさめるまでは、のんびりここに隠れてなさい。あの猫たちみたいにね」
握っていた私の手を、もう片方の手でぽんぽんと叩いてから放し、エレノアはまた、にっこりと笑った。
「あんた、イルスが好きなの?」
両手を腰にあてて、エレノアはなんでもお見通しだという口調で、突然話を変えた。私はあんぐりした。
「どうしてですか」
「あの子が、自分は客だって言ったときに、あんたが吐きそうな顔をしたからよ」
「本当に吐きそうだったんです」
私は断言した。するとエレノアは楽しくてたまらないというふうに、うっふっふと笑った。
「なんだったら隣にいったら。今夜は私がここで寝るから。そりゃあもう殺しても起きないほど深く眠っているから」
「からかわないでください。エレノアさんがイルスの恋人なんでしょ?」
私は真っ赤になって怒っていた。意地悪で優しい美人なんか嫌いだ。エレノアはさらに面白そうな顔をした。
「あら違うわよ、おあいにく様。私はあの子のお母さん役。恋人はまだ見たことないけど、テルなら年も釣り合いそうだし、いいんじゃないかしら。試しに迫ってみたら? きっと嫌とは言わないわ、あの子惚れっぽいから」
私はむすっと押し黙ったまま、ベッドのうえで膝を抱えた。いろいろ考えると恥ずかしかった。ラブラブでハッピーエンド。そういう物語だったら私の旅もここで終わりにできる。そうだったらいいのに。
でも、きっと、そうはならない。
私の脳裏に、火刑台を見つめるイルスの無表情な目が思い出された。焼け落ちた遺骸を見つめる彼の目、あれはなにか、奇妙な憧れのように、揺るぎのない一途な視線で、死の瞳と見つめ合っていた。それと同じ、静かな熱を帯びた目で、彼が他の誰かと見つめ合うことはない。そんな気がする。
それとも私が知らないだけ?
「火刑のあとを、毎日見にいっているのよ」
エレノアが、背伸びをするようなポーズで、ベッドに倒れ込んだ。彼女は回想するように天井を見つめている。
「え? 誰がですか?」
「イルスよ。逃がすつもりだったらしいの。奇跡屋の聖女をね。でも神殿に出し抜かれてしまって、ああいうオチよ。仕方ないわよね、不敬罪は不敬罪、濡れ衣じゃないんだから。気の毒な娘(こ)だけど、この世で不幸なのはあの娘(こ)だけじゃない。死んだものはどうしようもない。不運だったのよ。でも、イルスは責任を感じてる。火刑台にとびこんででも助けるべきだったんじゃないかって」
「そんなことしたら自分も死にますよ」
「そうね」
目を細めて、エレノアは微笑している。
「黙って見ていて正解だったのよ。それが大人になるってことじゃない? なのになぜ、あの子はつらいの? みんな大人になるのよ。いつまでも十四歳の子供じゃない」
ふーっと長いため息をついて、エレノアは横に座っている私の手首を握った。
「テル、あの子はなぜあんたを助けることにしたの?」
なぜなのか、私にも分からない。はじめは出ていけって言ってた。でも途中で気が変わったの。
「額に赤い点を描いただけで、死なないといけないなんて、おかしな世界だって、私が言ったら、俺もそう思うって言って、ここに来ることに決まったんです」
何か切っ掛けがあったとしたら、それくらいしか思い当たるものがない。私の説明を聞いて、エレノアは、あー、と困ったようなうなり声をあげた。
「あのね、それは常識よ。神殿種のふりなんかしたら、不敬罪で殺されても当たり前。火刑よ? 生きたまま焼かれるのよ? それを知らないのは、気の毒な頭の足りない娘っこくらいよ」
「どうしてですか。変は変でしょう。変だなって思うくらいは自由じゃないですか」
作品名:湾岸の風〜テルの物語 作家名:椎堂かおる