湾岸の風〜テルの物語
第二幕
その明るい部屋に、私は涙と鼻水にまみれ、髪はぼさぼさの埃だらけ、空腹と吐き気の二本立てに揉まれる胃袋を抱えて到着した。顔面蒼白で立っている私を見て、その女の人は何度か目を瞬かせてから、イルスに顔を向けた。
「あんた、この娘をどこからさらってきたの?」
「さらってきたんじゃない。拾ってきたんだ。浜に落ちてたから」
私はナマコかウミウシか。そう思う元気ぐらいは出てきたけれど、私は何も言えなかった。口を開くと吐き気がこみ上げてきそうだったから。
「しばらく面倒みてやってくれ、エレノア」
イルスは命令ではない口調で言った。
エレノアと呼ばれた女の人は、長身の美人で、ゆるく結った長い髪に、白い花をいくつも挿している。燃えるような赤いドレスの、大きく開いた胸元には、金と宝石でふんだんに飾られた、重たげなネックレスをしていた。だけど足元はなぜか裸足。ドレスの裾からちらりと見えた、形の綺麗な足の爪は、赤と金色でつややかに染められていた。
「いきなり連れてきて、面倒みろじゃないわよ。猫じゃないんだから」
彼女が言うのを狙い澄ましたように、赤いドレスの裾から、にゃあという細い甘え声をあげて、真っ黒い猫が歩み出てきて、イルスの足に親しげに擦り寄った。
よく見ると、花で飾られた大きな窓がいくつもあるこの部屋には、窓辺でひなたぼっこを楽しんでいる猫がごろごろしている。猫たちは知らん顔をしているようでいて、ピンと耳を立て、こちらの様子をうかがっているようだった。
「もう猫は連れてくるなって言ったでしょ」
美人エレノアは怒っているみたいだった。
「今日のは猫じゃねえだろ」
「拾ったもんは、自分のうちで飼えって言ってんの」
腕組みをして、エレノアは顎を上げ、猫を抱きかかえようとしていたイルスをにらんだ。言い争っている真っ赤な美人と、黒猫を抱いた男にはさまれて、私はとにかく、部屋に置かれている大きなベッドに今すぐ横になりたい気持ちでいっぱいなのに、それを言い出す切っ掛けが見つけられない。
「事情ぐらい聞けよ」
「あんたの事情はだいたい言い訳なのよ。あんたは自分がなにか、いいことをしたような気分になりたくて猫を拾ってきてるのよ。単なる罪悪感の裏返しなのよ。いやなことがあるたびに、猫を抱いて現れないでくれる? ここは娼館(ルパーナ)よ、猫預かり所じゃないわ」
イルスに抱かれている黒猫は、彼になついていた。ごろごろと喉を鳴らし、長く黒い尾をゆらゆらさせながら、気持ちよさそうに耳を閉じている。
「人の子を拾ってくるなんて、今回はどんな心の痛む経験をしたわけ。甘っちょろいわね世間の荒波のひとつやふたつ、酒でも浴びて忘れるもんでしょ大の男なら。火刑がなによ、あんたのせいじゃないでしょ。終わったことで、いつまでもウジウジウジウジしてんじゃないわよ」
エレノアは驚くほど、こちらの話を聞いてくれなかった。まるで、頭ごなしに説教しているお母さんかお姉さんみたいだ。
イルスとエレノアは全然似てないけど、もしかして二人は血の繋がった姉弟なんだろうか。そんな私の予感を、イルスのぼやきが否定した。
「俺、いちおう客なんだけど」
「金払ったからって偉そうにしないで。あたしは花魁(ファラン)よ。客を選ぶ権利があるわ」
エレノアは鉄壁だった。イルスは諦めたようにため息をついて、肩をすくめ、戦法を変えた。
「俺たち腹減ってんだけど。朝からなにも食ってない。こいつもだ」
私のほうを顎で示して、イルスがうったえると、エレノアは、片眉をあげて「そう来るか」という表情をした。
なんだ、イルスもお腹すいてたんだ。そう思いながら、私はやっとのことで口を開いた。
「あのう……話の途中ですいません。吐きそうなんですけど、トイレどこですか」
そう言うなり、私は白目をむいてぶっ倒れたんだそうだ。後に、猫を抱いていたから、とっさに私を抱き留められなかったとイルスは済まなそうに言った。そのときも黒猫はイルスに抱かれて勝ち誇ったように鳴いていたが、あいつはぜったいメス猫だと思う。
作品名:湾岸の風〜テルの物語 作家名:椎堂かおる