君に追いつきたい
挫折、特訓、追いつくために
白球がゆっくりとバウンドしながら向かってくる。しかしそれでも、恐怖感が朝日良一を襲った。顔を背け、グローブだけを前に出す。そんなことで捕れるはずもなく、高坂克則のノックによる打球は良一の後ろへ転がっていった。
これで四球連続のエラーだ。そもそも四球しか打ってもらっていないため、全てエラーしていることになる。四回のうち、グローブに当たったのはわずかに一度だけだった。
――だから嫌だったんだ
三度目のボール拾いを終えてセカンドの守備位置へ戻りながら、良一は心の中で毒づいた。
こうなるのは初めから分かっていたことだ。それでも、一度自分から野球をすると言った以上、今やめるわけにはいかない。あそこでマグレのヒットを打ってしまった過去の自分を彼は責めた。あれのせいで、野球の魅力を知ってしまった。そう簡単に味わえるものでもないのに。
ショートを守る水野奈央のことを、良一は見ることができなかった。彼女はこの醜態をどう思っているのだろうか。彼女はまだ一度もエラーしていない。
良一は自分の左手にはめた、まだほとんど汚れていないグローブに目をやる。今日の練習でこのグローブにボールが入ったのは、キャッチボールのときだけだ。
ミズノ製であることを示すランバードのマークが、自分を嘲笑っているようにすら感じる。奈央のものと同じメーカーであるはずなのだが、何故か全然違うもののように思えた。
このグローブを購入したのは一週間前だった。良一の両親と水野家の総勢六人でスポーツショップに向かった。元々野球が好きであった良一の両親は、彼が野球を始めることに反対しなかったが、それでも用具の購入などについては全く分からなかった。そのため、既に経験がある奈央の家族に助っ人を要請したのだ。
生まれて初めて入ったスポーツ用品店には、日曜日ということもあってか、良一が思っていたよりも多くの人がいた。キョロキョロと周囲を見回しながら歩いていく。店内の一番奥に、野球コーナーはあった。
「すごい……」
思わず口から漏れた。数十個のグローブが棚を埋めつくし、おそらく百本を越えるバットが並べられている。ユニフォームやスパイクなど、全てが圧巻だった。
奈央は迷わず、グローブが並べられている棚の前に立った。良一もそれに続く。黒や茶色や黄色など、様々な色のものがある。自分一人でこの中から一つを選ぶというのは、おそらく無理だっただろうと思った。
「朝日君は、どこのポジションを守りたいの?」
奈央の問いに、良一はしばらく考える。思い浮かんだのは、華麗に守る柳康平の姿だ。彼は二塁手である。
「セカンド……かな」
「セカンドね。うむ、ナイスチョイス」
「……誰?」
良一のツッコミを完全にスルーし、いつの時代に生きているのか分からない彼女は、少し奥に進んだ。「内野手用のグローブはここ。この中から一緒に選ぼうよ」
「うん、ありがとう」
そう答えたものの、良一はどういったものを選んだらいいのか全く分からない。一応あれこれと手に取ってみるが、奈央が何かを薦めてくれるのを待とうと思った。
しかし、なかなか彼女の助言を聞くことはなかった。最初にいきなり自分から薦めるのは控えているのかもしれない。良一が何も考えずにそれを選ぶことが嫌なのだろうか。いらない配慮だ。もっとも、彼女の心配している通り、彼は薦められたものをそのまま選ぶつもりだったので、鋭い心配だといえた。
この際仕方がない。良一は目の前に置いてあるグローブを適当に選び手にすると、それを奈央へ見せた。自分で決めるにしても、とりあえず彼女の反応を参考にしなければならないという思いもあった。
彼女はそのグローブを手にすると、しばらく眺めた後で良一に返した。
「どう、かな」
「うーん……」しばらく唸った後で、奈央が続ける。「朝日君はそれがいいの?」
「え? いや、そういうわけでは……」
適当に選んだとも言えず、彼は返答に苦しんだ。そうだと答えて、適当に選んだグローブを購入する羽目になるのも困る。
「私は、こっちの方がいいと思うな」見かねた奈央が、黒いグローブを差し出してきた。
「これ? どうして?」
「まあ、特に理由はないんだけど……」そう前置きし、彼女は笑いながら言う。「そのグローブ、メーカーが『ミズノ』なの。私のグローブも、それの色違いだよ」
ミズノといえば、奈央の名字である。もちろん彼女の父親が経営している会社というわけではないだろうが、彼女がそのメーカーが作っているグローブを好む気持ちはよく分かった。
良一は渡されたグローブを自分の左手に嵌めてみた。まだ堅いそれは閉じこそしなかったものの、中に入れている手の感覚としては、何故かしっくりくるものがあった。
「これにするよ」
良一はすぐに答え、両親にも告げた。そうして残りの野球道具を購入し――ユニフォームやスパイクはチームがしているものを、バットは彼でもしっかり振れるくらい軽いものを選んだ――、店を後にした。多くの道具を購入したが、そのなかでも一番彼の気分を高めたのは、ミズノのグローブだった。
だが、そんなグローブも今は何の役にも立っていない。打球がグローブに当たらないのだから当然だ。
結局、良一がそのノックでボールを捕ることはなかった。最後は無様にも、バウンド後胸に当てて前へ落としたボールをホームに送球――それすらも、ベースから大きく離れた位置へ向かったが――し、守備位置から引き上げることができたくらいだ。
バッティング練習はまだマシであった。二〇球ほど投げてもらい、バットに二球も当てられたのだ。そのいずれもファウルチップであったことは、彼にとって特に意味を持たないことだった。
帰り支度をしている中、良一は人目も憚らずに思いっきり泣きたくなった。自分が情けなくて仕方がなかったのだ。だが、奈央の前で涙を見せることは、それを上回るほど情けない。わずかに残ってる意地で、彼はそれを食い止めた。
「朝日君、準備できた? 帰ろっ」
良一が振り返ると、そこには笑顔の奈央がいた。彼の悩みなどまるで知らない、気づかない、晴れ晴れとした笑顔だ。彼女にとっても久しぶりの練習であった今日は、良一とは違ってとても楽しいものだったのだろう。
奈央の隣には、彼女の父親も立っていた。帰るときは水野家の車に乗って一緒に帰ると、事前に申し合わせていたのだ。
正直、今は奈央たちと一緒にいたくなかった。だが、だからといって家までの足が他にあるわけでもない。良一には、ありがたく車に乗せてもらう以外の選択肢がなかった。
奈央とともに後部座席に座ると、良一の気持ちと裏腹に、車は軽快に動き出した。
運転席の真後ろに座った奈央は、今日の練習がどうだったかについて、父親と尽きることなく話をしている。良一の気持ちを知らない彼女はときどき彼にも話を振ってきたが、当然同じようなテンションで返すことはできない。歯切れの悪い口調だと自覚しながらも、彼にはどうしようもできなかった。
「よし、よく頑張った二人に、アイスを買ってあげよう」
「本当? やった!」