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君に追いつきたい

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 水野家の引っ越しに伴う荷物整理がある程度落ち着いた日曜日、良一と奈央はマンションの近くにあるグラウンドにジャージ姿で来ていた。ファルコンズの練習場所であり、良一自身何度か来たことのあるところだ。バッティング練習を食い入るように見つめる奈央の横で、彼は大きなあくびをした。
 康平が所属していたときからファルコンズは強かった。良一が入団する気が起きないのもそのためだ。自分とはレベルが違いすぎる。
「久しぶりじゃないか」ファルコンズの監督を務める高坂が、いつの間にか奈央と逆側の隣に来ていた。「彼女なんか連れてどうしたんだ今日は。ついに野球を始める気になったのか」
「いや、何というか……」
 奈央に無理矢理連れてこられたとは言えず、良一は言葉を濁す。高坂のことは嫌いではない。しかし、野球について話すのは苦手だった。
「この前、引っ越してきました。こっちでも野球をしたいので、今日は見学に来ました!」
「君が野球を? ということは、カップルで入団しようというわけだ」
「違います! カップルじゃなくて、朝日君は隣の部屋に住んでて仲良くなったから、案内してもらってたの!」
 少しムッとしながら奈央が言う。最後の方はタメ口になっていたので、もしかしたら本気で怒ったのかもしれない。彼女は何も間違ったことを言っていないのだが、こうもあっさり否定されると少し寂しい感じがした。
「そうかそうか、それはすまなかった。今は野球少女の数も増えてきてるし、ウチとしても君みたいな明るい選手は大歓迎だ」高坂はそう言って軽く笑うと、視線を良一に向けた。「で、良一は入るつもりがないと」
「……はい」
「そうか。まあ、気が向いたらいつでも来てくれよ。康平のようになれるかもしれんぞ」
 良一がよく知る人物の名前を出しながら高坂は呑気に言う。無理だよと言いたいのを我慢して、良一は口を閉ざした。
 そうこうしているうちにバッティング練習が終わった。高坂の方に選手が一人向かってくる。おそらくキャプテンだろう。何度か見たことのある顔なので、同じ小学校に通っているのかもしれない。
「高坂監督、次はノックでよかったですか」
「いや、すまないがまだバッティングをしていない奴がいる。そいつに打たせてやってくれ」
「え、もう全員打ちましたけど……」キャプテンはそこまで言ったところで良一と奈央の方を見た。「もしかして、こいつらですか」
「ああ」
 キャプテンは少し驚いた様子を見せたが、やがて頷いて他の選手達に大声で指示を出した。今までも何度かこういったことがあったのだろう。
「いいんですか?」奈央が高坂に尋ねる。
「ああ。ジャージだし、動けないこともないだろう。野球経験はあるんだよな」
「はい。2年生から始めました」
「それなら大丈夫だ。むしろあいつらにバッティングを教えてやるくらいの気持ちでやってくれ」
「そんな……」そう言いながらも、グラウンドへ向かってツキヤマと歩き出す彼女はイキイキとしたオーラに纏われているように見える。
 良一としても奈央が野球をするのを見るのは初めてだったので、少し楽しみでもあった。彼は少しでも近くで見ようと、奈央たちの後ろについて歩き出した。
 ツキヤマに渡されたヘルメットをかぶると、奈央の髪の毛はスッポリとその中に収まった。バットを何本か手にとりグリップの握りを確かめると、そのうち一本を持って彼女は左打席に入った。
――左打ちなんだ……
 初めて見た奈央の構えはとても綺麗で、今まで何年間も野球をやっていたのであろうことが、素人である良一が見ても分かる。同じく左打ちであった康平の姿とダブって見えた。
 マウンドに上がったのはツキヤマだった。奈央の準備が整ったのを確認して、彼はゆったりとしたフォームから白いボールを投げ込んだ。
 ツキヤマの動きに合わせて動かした奈央のバットがボールを捉える。甲高い金属音を残して、打球はツキヤマの足元を襲った。彼は慌てて足を引いて避ける。打球は勢いをゆるめることなく、そのまま二遊間を抜けていった。
「大したものだな」
 彼女のバッティングを見て、高坂が呟く。良一もそう思った。綺麗な構えからの期待を裏切らない素直なスイングに、彼は夢中となった。その後も、いくつかの打ち損じがあったものの、奈央は多くのクリーンヒットを放った。そのスイングを、良一はジッと見つめた。
 高坂にラストと指示されたボールをセンター前へ運んだ奈央は、ヘルメットを取ってツキヤマに一礼すると、良一らの方へ走ってきた。
「どうでしたか」
「とても良かったよ。ぜひ、ウチのチームに入ってほしいね」
 奈央に答える高坂の言葉は、お世辞とは思えなかった。長打性の当たりこそ少なかったものの、どのコースにも彼女は上手く対応していた。ツキヤマが汗を拭っているのは、途中から全力で投げていたことを窺わせる。見学者の女子にあそこまで簡単に打たれては、強豪チームのキャプテンとして気になってしまったのだろう。
 奈央は笑顔を浮かべると、良一の方に顔を向けた。感想を聞かれるのだろうと彼が口を開こうとしたとき、彼女が先に言葉を発した。
「朝日君も打たせてもらおうよ!」
 良一は思わず口を閉ざした。彼女が何を言っているのか、一瞬では理解できなかったからだ。それでも、何か言わなければならないと思った彼は、慌てて言った。
「僕はいいよ。別に、入団するつもりで見学に来たわけじゃないから。僕が打ったら、ファルコンズにも迷惑をかけちゃうしさ」
 そして良一は、すがるように高坂を見た。だが彼は微笑み浮かべて口を開いた。
「いや、俺たちは構わないぞ。打ってみろよ」
「ほら、監督もこう言ってくれてるよ」
 前門の少女、後門の大人。良一は、もうどこにも逃げ場がないことを悟った。彼が反論できないでグラウンドの方へ視線を移していると、不意にポンと背中を押された。おそらく高坂だろうと思って振り返ろうとしたとき、高坂が声を張った。
「スマン! もう一人だけ、打たせてやってくれ!」
 良一はついに観念した。これ以上ファルコンズのナインに迷惑をかけるわけにはいかないため、彼は奈央が使用したバットとヘルメットを受け取ると、小走りで右打席に入った。
 早く終わらせたいからか、良一が打席で構えるとすぐに、ツキヤマは投球モーションに入った。初めての打席ということで内心ビクビクしていた良一は、彼が投じた初球の速球――後から振り返れば、これはかなり遅いボールであったが――に驚き、思わず体を後ろに引いた。
「ストライクだぞ、良一。しかもど真ん中だ」
「わ、分かってますよ!」
 恥ずかしさを感じていた良一は、高坂に対して強がって答える。しかし実際は、心臓の音が聞こえそうなくらい怯えていた。
 二球目も三球目も、良一はバットを振ることができなかった。四球目で初めてバットを振ることができたが、それは腰が引けて、とてもスイングと呼べるようなものではなかった。
「監督、前から投げた方がいいですか」
 ツキヤマはそう言うと、高坂の返事も待たずにマウンドから下りて、バッテリー間――少年野球におけるそれは一六メートル――の半分ほどまで前に来た。
作品名:君に追いつきたい 作家名:スチール