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君に追いつきたい

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出会い、僕と、ノッポの少女


 母親が呼ぶ声で、朝日良一は目を覚ました。枕元に置いてある目覚まし時計――夏休みに入ってからは、ただの"時計"になってしまっているが――を見ると、時刻はもうすぐ八時三十分になろうとしていた。
 目をこすりながらリビングに行くと、テーブルにはいくつかのパンが置かれ、テレビはNHKを映していた。
「おはよう」
 良一を起こした後で、会社に出勤しようとしている母親に、彼は声をかける。父親は、おそらくもっと前に家を出ているのだろう。夏休みに入ってからは、平日はほとんど会っていない。
 母親が家を出て、良一はどのパンを食べようかと、テーブルの上にあるパンを物色する。そのとき、テレビから甲高いサイレンの音が聞こえた。
――もう、試合開始か
 良一はパンを探す作業を止め、適当に一つのそれを掴みとる。どうせ、ここにあるパンの中で、彼の嫌いなものなんてないのだ。
 彼が夏休み真っ只中の今、こんな早い時間に起きたのは他でもない。高校野球をテレビで観るためだ。
 今日の試合は良一の地元東東京代表である銀王高校の一回戦だ。同じマンションに住む知り合いの高校生がレギュラーの高校であるため、第一試合で八時三十分開始にも関わらず、彼はこうして起きていた。母親を使って確実に起きるようにしたのも、そのためだ。
 良一がパンの袋を開けたとき、先攻チーム――胸に「双葉」と書いてある。たしか、京都府代表の高校だ――の一番打者がセカンドゴロを打った。画面が切り替わり、二塁手が映る。良一がよく知る人物だ。
「コウ君、かっこいいな」
 流れるような動きで打者をアウトにした柳康平を見ながら、良一は呟く。彼がどこか遠くに行ってしまった気さえした。実際には、彼はまだ自分と五つしか歳が違わぬ、高校一年生である。
 康平と初めて会ったのは、良一が小学校に入学して間もなく――つまり四年前だ。本当はもっと前から会っていたのかもしれないが、それ以前の記憶はない。
 出会ったきっかけは、小学校の集団登校だった。同じマンションに住む者同士なので、毎日一緒に学校へ通うようになったのだ。当時六年生だった彼は、班長だった。集団登校時の並び順は、班長を先頭にして、その後は一年生から学年順であったので、たった一年間ではあるが、良一はずっと康平の真後ろ――ときには真横――で登校していた。
 兄弟がいない良一にとって、康平はまさに兄のような存在だった。康平にも、おそらく弟のように、可愛がってもらっていた。
 一回の表を無失点で切り抜け、康平をはじめ銀王ナインがベンチへと戻る。良一は軽く拍手をすると、パンを口にした。試合に集中しすぎて、食べることを忘れていたのだ。
 野球というスポーツの存在は、康平のおかげで知った。地元少年野球チームのキャプテンだった彼とは、たまにキャッチボール――良一は捕れないし、投げても届かなかったが――もした。野球の楽しさを知り、プロ野球や高校野球もテレビでたまに観るようになった。だが、良一が本格的に野球をすることはなかった。
 良一は自分の細い腕を見る。野球をやりたいという気持ちは、ないこともない。だが、運動音痴な自分が、康平のようにプレーできるとは思わなかった。惨めな思いをするのは、嫌だった。
 一回裏も無得点に終わり、銀王ナインが守備に向かう。どうやら投手戦になりそうだ。
 乱打戦よりも投手戦の方が良一は好きだったので、少し嬉しくなる。もっとも、康平のいる銀王高校が勝てばどちらでもいいのだが。
 攻守交代の合間に新聞を読もうと、良一はテーブルの上を見る。いつもは、父親が読み終わったそれが置いてあるのだ。
 だがそこに新聞はなかった。おそらく、まだ誰も取りにいってないのだろう。マンション1階にある郵便受けに新聞が入れられるため、4階に住む彼らは、たまに新聞を取りにいくことをサボることがあった。朝刊を夕方に読むこともしばしばだ。何のための新聞なのだと他人につっこまれても仕方ない。
 テレビに目をやると、二回の表がそろそろ始まろうとしていた。プロ野球と違い、高校野球はテンポが早い。
――どうしようかな……
 昨日は、良一が贔屓しているプロ野球チームの東京ヤクルトスワローズがサヨナラ勝ちを収めたのだ。早く記事が読みたいという気持ちも強かった。
 彼はため息をつくと、小走りで玄関に向かった。
 靴を履き、ドアを開けて外に出る。そのとき、ドアの前を通ろうとしていた男とぶつかりそうになった。慌てていた良一は、それを避けようとしたがバランスを崩して地面に倒れてしまった。
「おっと、大丈夫かい。ごめんな、ケガはないか」
「いえ、僕は大丈夫です。こちらこそすみません」
 言いながら良一は立ち上がる。男を見ると、重そうなダンボール箱を抱えていた。引っ越し業者の従業員だろうか。そういえば、今日は隣の部屋に家族が引っ越してくるのだと両親から聞かされていたのを、良一は思い出した。
 軽く会釈をし、良一は通路を走る。先ほどぶつかった男の後にも、同じ制服を着た男たちがダンボール箱などを持って向かってくる。良一は彼らを避けながら、エレベーターの前に着いた。
「すいません、エレベーターって使っても大丈夫ですか」
「ああ、いいよ。迷惑かけてごめんね」
 エレベーターから出てきた従業員の了承を得て、彼はすぐに乗り込む。すぐに一階のボタンと閉扉ボタンを押して、一階に着くのをじっと待つが、いつもは気にならないエレベーターの遅さに、今は腹が立った。
 一階に着き、ドアが開く。そこにもダンボール箱を持った男がいたが、良一はその脇をすり抜けて走った。
 オートロック式であるドア――もちろん、今は開きっぱなしだ――の前で曲がり、郵便受けに向かう。すると郵便受けの前に、家族と思われる三人組がいた。
 見たことのない顔だ。もしかしたら、この三人が引っ越してきた家族なのかもしれないと、良一は思った。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
 良一が挨拶すると、家族は不意を突かれたように挨拶を返した。このマンションでは、住民に会ったら必ず挨拶するのがきまりだった。やはりこの家族は、今日ここに引っ越してきたのだろう。
 不自然ではない程度に、三人を観察する。四十歳前後と思われる、色黒のダンディな父親。それより少し若いであろう、上品そうな母親。そしてその二人に挟まれるように、背の高い娘がいた。
――中学生、かな
 ノッポの彼女を見ながら、良一は思う。恐らく、彼女の身長は一六〇センチメートルを越えている。一五〇センチ弱の彼よりは、当然大きい。しかし、背は高いがスゴく可愛い顔だと思った。
 四○九――朝日家の郵便受けを開け、中に入っている新聞を取り出す。そのとき、昨日までは名無しだった隣の郵便受けにシールが貼ってあることに気がついた。
 「水野」と印字されたそれは、なかなか新鮮だった。同時に、何故彼らがここにいたのかも理解する。自分たちのシールが貼られた郵便受けを見ていたのだろう。
 良一は郵便受けの扉を閉め、すぐに立ち去ろうとする。目的は果たしたので、早く部屋に戻って試合を見たかったのだ。
「あの」
 女性に呼び止められ、歩き出そうとしていた良一は動きを止めた。顔を家族の方へ向ける。
作品名:君に追いつきたい 作家名:スチール