君に追いつきたい
中学、入学、二人は合格?
ブカブカのブレザーに体を包まれた朝日良一は、自室の鏡に映るみっともない恰好を見てため息をついた。これから成長するだろうということでワンサイズ上の大きさであるブレザーを注文したのだが、これではチビをアピールしているようなものだ。
「似合ってるわよ、良一」
「俺も、中学一年生のときはそんなものだった。気にしなくていい」
両親が良一の姿を見て口を揃える。身長が一八〇センチメートルを越えている父親の言葉は慰めにこそなったが、それでも嬉しくはなかった。
そもそも、良一は決してチビではないと自負していた。大きくはないものの、一五〇センチメートル台半ばである彼より小さい同学年の生徒を、何人も知っている。問題はそこではない。隣に並ぶ、あのノッポと比べられるのが問題なのだ。
そのとき、インターホンが鳴った。母親が玄関に走る。誰が来たのかはみんな分かっているので、彼女は受話器を取って相手を確認するという動作を省略して、ドアを開けた。
来訪者と母親の会話が、良一の部屋にまで聞こえてくる。どうして女同士の会話というのは、中身がなくても続くことができるのか。未だに答えが分からない、長年の謎だ。
そろそろ行かなくてはならない。ニヤニヤしながら自分の姿を眺めてくる父親を軽く睨むと、良一はカバンを持って自室を出た。
「あ、良一君。おはよー」
良一の母親としていた会話を中断し、来訪者――水野奈央が元気良く挨拶してきた。良一も笑顔を浮かべて挨拶を返す。彼女と出会ってから二年弱が経ち、お互いに下の名前で呼び合うほどの仲にもなった。だが逆に、そこ止まりともいえた。
家族揃って部屋を出ると、ちょうど同じタイミングで隣の部屋からも奈央の両親が出てきた。お互いに挨拶を交わすと、良一の母親と奈央の母親による会話が開始された。良一はそれを後ろに感じながら黙々と歩く。すると、奈央が隣に並んで言った。
「似合ってるね、制服」
嫌味かとも思ったが、奈央が浮かべる満面の笑みを見ると、本気で言っているようにも感じられた。良一の両親と同じようなことを言ったのだが、彼女が言うと不思議なことに全く苛立たない。
奈央は良一と違い、その長身に似合った制服を着こなしていた。エレベーターに乗ると鏡に二人の姿が並んで映る。当然ながら、背が高い方が奈央で低い方が良一である。彼は視線を鏡から背けた。
彼らが住むマンションから学校までは徒歩十分といったところだった。「入学式」と書かれた板の前で記念撮影などを済ませる。奈央とツーショットで写るときには全力で肩幅を広げるなどの努力をしたが、それはほとんど実らなかった。
校舎に入ると、靴箱が並ぶ手前に台が置いてあり、そこに何枚ものプリントが置いてあった。新入生と思われる生徒がそれを取って眺め、友人たちと一喜一憂している。おそらくクラス分けが書かれているのだろう。二人で小学校に通った二年間は同じクラスで過ごすことができた。また奈央と同じクラスになれるのだろうかと少しドキドキしながら、良一もプリントを手にとった。
名字が「あ」で始まる良一は、大抵名簿の一番上に名前が書かれている。今回もその例に漏れず、彼の名前は一組の一番上にあった。
あとは奈央の名前を見つけるだけだ。目線を少しずつ下げ、「水野奈央」という文字を探す。しかしどれだけ頑張って探しても、彼が求めている名前は一組の欄になかった。
落胆を隠しきれず、彼はため息を漏らす。その直後、奈央から沈んだ声が発せられた。
「クラス離れちゃったね……」
「奈央は何組?」
「七組みたい」
最悪だ。一年生は七つのクラスに分けられているようだが、その両端に割り当てられたのだ。想定していた中では最悪のシチュエーションだった。
二人のクラスを知った彼らの両親も、お互いに嘆いているようだった。クラスが一緒ならばPTAなどでともに行動することも多いだろうが、クラスが違うとなるとそうはいかない。
そのまま教師たちの誘導に従い、長椅子が多く並べられた体育館へ入る。席はクラス毎になっており、そこで奈央と別れた。
退屈な入学式が終わると、すぐにホームルーム教室へと連れていかれた。当然奈央とは別のままだ。長い廊下を歩きながら、気分はどんどん下がっていった。彼は思わず下を向く。
しかしとき、急に立ち止まった前の生徒にドンッとぶつかってしまった。
「あ、すみませ……」
謝罪しようとした良一は、最後まで言い切らないうちに口を閉ざした。理由はただ一つ、振り返った前の生徒が彼を睨みつけてきたからだ。単純に恐怖を感じたのだ。
「てめえ、何してくれるんだよ」
「すみません」
「あ? すみませんで済んだら警察も教師も必要ねえだろ!」
「教師は必要だと……」
「ああん?」
「いえ、何でもないです」
威圧してくる生徒に対し、良一は言い返すことができなかった。確かにぶつかったのは明らかに良一が悪いのだが、それでもそこまで言うことはないだろうと思う。しかしそれを口にすることなく、良一は教室へと入った。
小学生時代に仲の良かった生徒は奈央の他に数人いたが、彼らともクラスが別になってしまった。先ほどのこともあり、心細い。
そして何より彼を恐怖させたのは、隣の席が先ほどの生徒だということだ。席は名簿順になっていたので、名前が書かれた先ほどの紙を見て彼の名前はすぐに分かった。木岡智之というらしい。
教師によるガイダンスのようなものが、前方の教壇で行われている。しかし良一の意識は前方よりも横にあった。横とはもちろん智之だ。
今度は退屈とはほど遠い気持ちの中で、時間が過ぎるのを待った。ようやく解放されたときにはもう倒れてしまうのではないかというほど疲れきっていた。
それを救ったのは奈央だった。
「良一君、野球部の見学に行こうよ!」
それぞれの帰り支度でザワついている教室の中で奈央の声が響く。数時間ぶりのはずだが、まるで何日も聞いていなかったかのように心地よい。カラカラの喉を通った水のような声だった。
良一は慌てて帰り支度を始めた。疲れきっていた身体は少しの水でかなり回復し、今までにないほどのスピードで、先ほど配布されたプリントをカバンに詰め込んでいく。二十秒ほどで彼は立ち上がった。
奈央に続いて教室から出る。ようやく地獄から解放されたと安堵する。しかしそれも束の間、後ろから良一を呼ぶ声が彼を引き止めた。声の主は智之だった。
「おい、お前ら。野球部の見学に行くのか?」
「う、うん……」
「やめとけやめとけ。チビと女にできるほど、中学の野球はレベルが低くないからな」
それだけ言うと、智之は良一らを追い越していった。非常に腹が立ったが、それよりも言い返すことができない自分に腹が立った。
「何、あれ」
「隣の席になった奴で、木岡って名前」
「あの人も野球部なのかな。絶対に負けたくないよ」
奈央が頬を膨らませる。馬鹿にされたのだから怒るのは当然だ。
だが、良一の思いは違うところにあった。彼女が言うまで気づかなかったのだ。智之も野球部に入るかもしれないということに。
智之の態度から考えるに、おそらく彼は野球部に入るのだろう。最悪だ。