君に追いつきたい
「目を逸らさない!」
「鬼だ……」
文義が発する大声とは対照的に、良一は彼に届かないような小さい声で呟いた。
文義との極秘練習は、彼によるノックを良一が受ける形で行われた。場所は、彼らが住むマンションに近い公園だ。
照明が点灯しているとはいえ、夜の公園は暗い。これが真夏でなければ、とてもボールなど見えやしないだろう。良一は額の汗をシャツで拭った。夏だから打球も見えるが、夏だからこそ暑くて仕方ない。
文義の元にあったボールがなくなった。事前に彼らが用意していたものは五球だが、それらは全て良一の後ろに転がっていた。
「今日はそろそろ終わろうか」
ノック用バットを地面に置きながら文義が言う。野球をした経験があるとはいっても、やはり四十に近い歳でノックを打ち続けるのは身体に堪えるだろう。
それを承知で、良一は答えた。
「あと五球だけ、お願いします」
文義は驚いた様子こそ見せたが、それでも嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに言った。「オーケー。でも、とりあえず一度休憩しようか」
文義の体力も考慮して、良一は頷く。文義が休んでいる間に彼はボールを拾い集め、五つ全てを文義の元へ運んだ。
「すみません、全然捕れなくて」
「謝ることじゃない」
そう言いながら、文義は良一が持ってきたばかりのボールを一つ掴み、良一の顔へ向けて投げつけてきた。
咄嗟のことに避けることも叶わず、土が付着して少し茶色くなった軟式ボールが、良一の額に直撃して地面に落ちる。彼はたまらずボールが当たった箇所をグローブを装着していない右手で抑え、文義に抗議した。
「な、何するんですか」
「痛かったかい?」
「えっ……」そう問われると返事に困る。驚いたが、痛くはなかった。「……痛いわけじゃないですけど」
「軟式のボールが当たったところで、痛みなんてたかがしれてるさ」先ほど投げたボールを拾い、文義は続ける。「だからボールを恐れず、最後までしっかりと見ることが一番の基本だ」
「最後までボールを見る……?」
「そこに気をつけて、ラスト五球いこうか」
「はい!」
文義がノックバットを地面から拾い上げるのを見て、良一は再び彼から距離をとった。ボールをしっかりと見ることだけを頭の中で呪文のように繰り返し、文義の打球を待つ。自分からリクエストした以上、一球たりとも無駄にはできない。
いつもと同じように軽い力で打たれたボールが、地面を跳ねる。相変わらず良一の正面に向かってくるそれを、彼はただじっと見つめる。それは段々と視界の中で大きくなり、そして、目の前でバウンドしたボールが彼の額にぶつかった。
「大丈夫か!」
バットを地面に置いて良一に駆け寄ろうとした文義を、彼は右手を前に突きだして止めた。
「大丈夫です」軽く額を擦りながら続ける。「打球もそんなに痛くないことが分かりました」
嘘だった。正直、思っていたよりも少しだけ痛かった。だがそれでも、一度経験してしまえば、これまで彼が持っていた未知のものに対する恐怖感は幾分和らいだような気がした。
文義は少しだけ表情を緩めると、再び元の位置へと戻った。そして、残り四球となったボールのうち一つを取ると、もう一度緩い打球を良一に送り出した。
良一はまたもやそれをじっと見つめる。だが、先ほどのように当たるつもりは毛頭なかった。今度は低い位置へきたボールに、グローブを差し出す。
だが、グローブに衝撃はなかった。
「惜しいぞ! 捕るときに、顎が上を向いていた!」
文義のアドバイスに、良一は頷く。グローブには当たらなかったが、今までと比べて打球に対する恐怖感はなくなっていた。
そして三球目、今度はグローブを出すのにつられないよう、しっかりと顎を引き、打球を最後まで見ながらグローブを前に出した。
その瞬間、今までにない感覚に襲われた。捕ることができなかったのは、背後から聞こえるボールが転がる音で分かる。だがそれよりも、今の彼にはその感覚が重要だった。
「あ、当たった……」
「いいぞ! その調子だ!」
文義の声を聞きながら、良一は自分のグローブを見つめる。先の方にボールが当たった痕跡があった。
次の打球も、捕ることはできなかったがグローブに当てることはできた。
劇的ではないかもしれないが、それでも着実に自分の実力が上がっているのは分かる。今までに感じたことのない高揚感が彼の身体を包んでいた。
そのまま五球目を要求する。良一と同じくテンションが上がっているであろう文義は、彼の要求に応えてすぐにバットを振った。
それがいけなかったのかもしれない。
「なっ……」
地面に大きめの石でもあったのだろうか、打球は良一の前で右に大きく弾んだ。慌てて身体を捻り、グローブを差し出す。目一杯伸ばした左腕の先に衝撃があった。身体はそのままの勢いで地面に倒れる。ジャージに覆われた身体を襲った衝撃は、先ほど左手に感じたそれとは違ったものだった。
「良一君!」
駆け寄る文義を、今度は良一も止めなかった。代わりに左手を前に突きだす。その先にあるグローブを開くと、そこからこぼれ落ちたボールが地面に落ちて、少しだけ弾んだ。
「と、捕れました……」
「ナイスキャッチだ。怪我はないか?」
「はい。多分擦り傷くらいです」
良一は立ち上がると、ジャージについた砂を右手で払う。そして地面に落ちているボールを拾った。
そのボールの白さを、良一は今でも覚えている。