千の夜 一の夢
かつて大陸のほとんどを支配していたイニス王国は時と共に力を失い、侵略され広大な土地を奪われていった。
これ以上、侵略されれば国は滅びるだろう。よい策はないかと連日会議を行ったが、決定的な案は浮かず、時は過ぎていった。
ある日、新興国の使者が親書を携えてやってきた。新興国が欲しがるのは由緒正しき血筋だ。古き王国との縁者だったと証明できるよう、家系図に名を加えてもらいたいのだろう。こちらの状況も知らずにと侮蔑しながら国王は封を破いた。
上質な洋紙にくせのない文字で綴られる文章は、礼儀正しく、古き王国に対して配慮があった。破竹の勢いで発展している国独特の傲慢さはなく、謙虚な態度に好感を抱いた。本題に入ると、獰猛な獣の爪が見え、要求を呑まない場合は、鋭い爪で容赦なく切り裂こうとしていた。
一気に強国にのし上げたウィンランド国王アレックス三世の要求は――。
六歳になる第一王女アデルと第二王子ノエルとの結婚を認めてくれるのなら、斜陽の王国を全面的に協力するとのことだった。
場内はざわめき、意見は真っ二つに分かれ、なかなか決まらなかった。
力強く活力にあふれている皇太子カノンと、控えめで思慮深い第二王子ノエルはイニス王国最後の宝だった。
傾いている国の立て直しを期待された兄弟は、清らかにまっすぐに育った。快活なカノンは前に立ち、ひっぱっていく。強引ゆえに、カノンに不満を抱く者たちをノエルがフォローした。二人揃ってこそ上手くいく。その一つを新興国に奪われるのは、国の将来に不安を残すことでもあった。
頭を抱え込む皆を見ていたノエルは意見を述べず、ただ決定を待った。
ここで自らの意見をいえば、国の崩壊への拍車がかかる懸念を抱いた。
ノエルは窓辺に座り、海の向こうにあるウィンランド王国の方角を向いて、まだ見ぬ幼い王女を思っていた。
かわいそうに。たった六つで人生を決められるなんて。
国のために、相応しい女性を迎える。それが王族の務めだと教えられたノエルは、割り切りながら恋をしてきた。
貴族たちの身を焦がれるような恋話を聞き、自分には縁がないと思いながらも、どこかで憧れていた。
自分はまだ恋をしてきたからいい。だが、アデルは恋をも知らずに結婚相手を決められた。
何不自由なく育った少女が一番不幸とは皮肉だとノエルは思った。
ノエルは幼い王女に同情しながら海を越えて、ウィンランド王国に入国した。
気候の変化が激しく、午前中は暖かかったが急に寒くなる。曇りがちな天気が多く、雨がよく降る国らしいが、ノエルが訪れた日は晴れ渡っていた。
ノエルの小さな花嫁は、宝石をちらばめたティアラを乗せ、真珠をちりばめた淡い青のドレスを着ていた。
意志の強そうな瞳がノエルをじっと見詰める。緊張している王女を和らげるように微笑むと、恥ずかしそうに俯いた。
気難しいと聞いていた王女はすぐにノエルに懐いた。幼い少女らしい悩み――赤茶けたひどいくせ毛とそばかすを聞き、大人になれば、気にならなくなると告げると、嬉しそうに笑った。
――ノエル王子があたくしを迎えに来てくれる頃には、くせ毛もそばかすもなくなっているかしら。
そうだねと頷くと、元気よく頷いた。
帰国の日、彼女は目にいっぱい涙をためて見送ってくれた。
十年後に迎えに行くと約束をしたが、守れる自信はなかった。十年後、イニス王国が存在しているのだろうか。明日でさえも危ういこの国に、十年先の未来の話をしても、無意味な気がした。
新興国と手を結んだ国に、異を唱える軍部が暴走した。
かつて大陸を炎で焼き尽くした古の巨人を復活させる唯一のものを所持しているにもかかわらず、歴史の浅い田舎くさい国と手を結んだ軟弱な体勢に怒りをぶつけ、巨人の復活法を手に入れようと画策する。
巨人を復活させれば、再びこの地を支配できる。この国に再び栄光を取り戻せと叫ぶ。
いずれ軍部は力で、古の巨人を手に入れるだろう。
巨人を使い、大陸を灰にして何になるのだろうか。
どれだけの人々を巻き込み、悲しみと怒りに導いて、何になる?
やつらに代々伝わりし王家の秘法を渡してはいけない。
王は決断した。王家の秘法を二人の王子に分けて国外へ逃亡させると。
皇太子のカノンは最後まで反対したが、王妃の頬を流れる涙を見て、亡命を決意した。
二人の王子の背に王家の秘法をそれぞれ移した。
一人ではただの文様にしか見えなくても、二つが重なりあえば、巨人の使用方法が浮かんでくる。
ノエルと年が変わらず、いざとなった場合、王子として振舞えるように訓練された護衛のチャーリーがノエルの身代わりになって時間を稼ぐ間に、カノンは東へ、ノエルは南へと逃げた。
わずかな護衛を連れて、逃亡の旅が始まった。
兄と再会を約束し、南へ逃げたノエルにまもなく追っ手が来た。
護衛の一人が足止めをした。先に行って下さい。必ず、後を追いますから。
――だが、彼はこなかった。
再び追っ手が来た。また一人。また一人と消えていく。
クールーフールの港に着いた時には三人だけになっていた。怪我をした護衛は海を渡った先で、怪我が癒えぬまま命を落とした。
命さながら海を渡った港町で、ようやく知った。
この国のはじまりとともにあったといわれる大樹で、王族や旧勢力の者たちのほとんどが絞首刑になったと。
死体はそのまま放置され、鳥たちについばまれ、獣たちが飛び跳ねて喰らいついた。骨は埋葬されることなくそのまま大樹の側に放置され、風が吹くとかたかたと音を立ててころがっている。
なんと、酷いことを。
ノエルは何とか帰って、埋葬してやりたいと思ったが、たった一人残った護衛のダリルに止められた。
何のために逃げたのか? 戻り捕まれば、死んでいった皆の想いを無駄にするつもりなのかと激しく叱責されたノエルは考えを改めた。
逃亡先で生きていく。少しでも長い間生きていくのが、死んでいった彼らに報いることではないだろうか。
ノエルは身代わりとなって死んでいったチャーリーにかわって生きていこうと思い、彼の名を名乗り、生活を始めた。
ノエルはチャーリーの母親の元で、少しの間だが一般庶民として生活をした経験があったからだろうか、うまく庶民の生活になじめた。
ほそぼそとだが、それなりに古美術商として生計を立てた二年前、ウィンランド王に会った。
彼はどこで知りえたのか、ノエルの背にある秘法を知っていた。
回りくどいことはせず、王はノエルに選択を迫った。
その身の保障する。その代わり――。
代償はどれほど大きなものか。ノエルは息を呑み聞いた。
「どうしても、ノエル王子を忘れられない娘に、現実を教えてやってくれ」
思っていなかった言葉に、ノエルはぼんやりとしていたのだろう。その表情を見て、王は笑った。
「ノエル王子は死んだのだといってくれ」
与えられた場所に移動したノエルは商売を始めた。しばらくして、古美術商に王の息がかかった女が客人としてやってきた。
彼女と綿密に打ち合わせて、時を選んで、実行にうつした。