千の夜 一の夢
5.シンシアの木の下で
ここのところ陽気続きで、つぼみだったシンシアの花は咲いているかもしれない。気にはなるものの、アデルは見に行く勇気がなかった。
マーニャは、アデルが昨夜読みかけていた本を本棚から出してき、ローテーブルに置いた。
「マーニャ、シンシアの花は咲いていた?」
自分でも驚くくらい酷くかすれていた。いったいどんな情けない表情を浮かべているのだろう。アデルの気持ちを察したマーニャは泣きながらこたえた。
「姫様、満開です」
そうとアデルはこたえた。
「バジルに会いに行くわ」
バジルとはアデルがこよなく愛する雄の馬である。アデルは気持ちが不安定になるとバジルに会いたくなる。闇のように深い黒い瞳を見ていると落ち着いてくるのだ。乗馬服に着替えると、バジルの元へと向かった。
城内は名馬ばかりそろっているが、その中でもバジルは圧巻である。気位が高く黒い毛並みがとても美しい。一目見たときから、アデルはバジルの虜になった。絶対、バジルに乗ってみせるといきこんだものの、誇り高きバジルは容易くは受け入れてはくれなかった。
アデルは毎日通いつめ、時間の許す限り側にいた。無視される日々が続いたが、雨が降ろうが、嵐がやってこようが、必ずやってくるアデルに興味を抱いたのか、バジルは徐々に心を許し始めた。
「バジル」
アデルは彼の鬣をなでた。彼の大きな黒い瞳がじっとアデルを見詰める。勘の鋭い彼は何かの拍子にぷつりと切れてしまうくらいに弱くなっているアデルの胸中に気付いたかもしれない。
なまじ、言葉が通じると、慰められ、励まされて、自分の状況を認識してしまう。
来ない人を待ち続けているアデルを皆はどのように思っているのだろうか。
かわいそう? 哀れ? 愚か?
よい評価を得られていないのは確かだろう。
「行きましょう」
アデルは気丈に振舞ってバジルにまたがった。バジルはゆっくりと歩き始め、徐々に勢いをつけて駆け出した。景色が後ろへと流れていく。
この十年間、何をやってきたのだろう。
ノエルが処刑されたと聞いても認めず、約束の日には必ずやってきてくれるとひたすら待ち続けた。
遺体を確認していないのに、信じてはいけない。遺体を見れば、納得するだろうか。
警備体制が厳しい旧イニス王国には入国できない。本当にノエル王子が処刑されたのか確かめることは難しい。それを理由に引き伸ばしているだけじゃないだろうか。
今日は約束の日。
今日、全て決めるの。
これから、わたくしはどうしたいのか。どう生きたいのか。
アデルは自分に問いかける。
心によぎるのはシンシアの花を見ていたノエル王子の横顔だった。
わたくしの夫はノエル王子ただ一人だけ。
走るのを止めたバジルが横を向いていた。アデルは彼が見ている方向を見ると、大人しい雌馬カトリーナに乗ろうとしている弟のアベルの姿が映った。
側近の者に手伝ってもらっても、上手く乗れないアベルのもとへとゆっくり進み始めた。
転げ落ちたアベルを側近たちは怪我はないかと心配する。世継ぎとはいえ、余りの過保護っぷりにアデルは大きな溜息をついた。
アデルは転げ落ちたアデルを見下ろした。アベルはバツが悪そうに「姉上」と笑いかけた。
「まだ乗れないの? 情けない子ね」
鼻で笑うとアベルはしゅんと小さくなった。アデルはバジルを軽く蹴り、再び走り始めた。側近たちの冷たい視線を背中で感じた。
下手なりに気にして、努力を重ねている弟の心境を一言で切り捨てたのだ。憎まれて当然だ。
情けないのは自分だ。アベルに八つ当たりするなんて、本当、バカじゃないの?
シンシアの花が咲いているかどうかも、確かめる勇気がないくせに。
バジルも今日が何の日かわかっているようだから、シンシアの木には近づかない。
城の皆は知っているからこそ、何もいわない。皆の優しさに甘えているのは自分だ。
ダメな人間はわたくしじゃないの……。
わたくしは――。
今夜までに決めなくてはいけない。
この先の人生を。
涙が溢れたが、決して拭わなかった。
静まり返った夜中、アデルは起き上がり上着を羽織りシンシアを見にいった。
マーニャがいっていた通り、シンシアの花は咲き誇っていた。美しく咲くシンシアを見ないで季節を過ごせるわけなどない。
アデルはぼんやりと眺めていた。あれほど泣いたのに、また涙が零れ落ちた。
やっぱり、来なかった。当然よね。彼はもう亡くなったのだから。
アデルはシンシアの木に額をつけ泣いた。
「こんな夜中に一人で観賞とは感心致しませんね」
思いがけない声の主に体が反応する。涙を拭ったアデルはゆっくりと振り返った。そこには、左の口元だけ吊り上げて微笑んだチャーリーがいた。
「なぜ、あなたがここにいるの?」
城の者は、今日は何の日なのか知っていたはず。ノエルによく似たチャーリーをここに遣わすなど、誰が考えたことなのだろう。アデルは激しい怒りにわなわなと全身が震える。
「王妃様が30万ゼーニーで買える物を選ばれるそうなので、待っていて欲しいと頼まれました。一商人が城内では泊まれませんと申し上げましたが、王妃様に引き止められまして、今宵はこちらで一夜を過ごすこととなりました。滞在することをお許し下さい」
「お母様がいいと仰ったのなら、いいんじゃないかしら」
お母様の配慮なの?
アデルはそうとは思えなかった。母はそのようなことはしない。きっと、たまたまなのだろう。
チャーリーがゆっくりとシンシアの木に近づいた。花を見上げ、花びらを一枚摘む。
「シンシアの花が咲いていますね。この木はウィンランド王国でならどこにでもある木。しかし、この国にしかない木だと聞きました」
「よくご存知で」
「この国にきたら、必ず見たいと思っていました」
「そう。それはよかったわね」
何度も落ち着くようにといい聞かせながら、アデルは返事をしていた。早くこの場から去って行ってもらいたかった。この先どうするのか考えたいのに。
チャーリーは振り返ると、アデルに話しかけた。神秘的な灰色がかった碧い瞳がじっとアデルを見詰める。
「……私はこの木の下で約束をしました。十年前になります」
アデルは驚きのあまり、よろけそうになるのを何とかこらえた。
激しく見詰めるアデルに動じることなく、チャーリーは語り始めた。