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千の夜 一の夢

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4.勿忘草を身に纏い



 うららかな日差しの中、アデルは不機嫌そうに腕を組み、豪華なバラの模様のソファーに深く腰掛けていた。隣に座る母妃が乙女のように恥らいながら、正面に座る美形の青年の話に聞き入っている姿を見るのは正直イライラする。アデルは咳払いをして注意を促したが、チャーリーに心奪われている母妃には届かなかった。
 上品な紺の上着を着たチャーリーは微笑みながら、テーブルの上に薔薇のティーカップとソーサーを差し出した。

「ブロス社の創業者ジョンソンが作った一品でございます」
 
 母妃はまぁまぁと声を上げて見入る。鮮やかなピンク色のバラが映える陶磁器は非常に美しかった。透明度の高い琥珀色の茶を淹れたらさぞかしおいしそうに見えるだろう。
 アデルはチャーリーがどのように入手困難なブロス社のジョンソン作を手に入れたのか想像した。あの美貌で、「思い出の品を一つ下さい」と囁かれたら、バカな女はホイホイと出すに違いない。

「素敵じゃない! 紅茶がおいしくなりますわ」
「全く思いません」

 母妃の問いにアデルはぶっきらぼうにこたえた。たぶらかして手に入れた物など、ここに置きたくもない。チャーリーは次に蝶のイヤリングを出した。蝶の羽には翡翠が埋め込まれている。

「まぁまぁ! わたくしに似合うかしら」

 手に取り耳につけようとする前にアデルは止めた。

「お年を考えて下さい」

 確かに蝶のイヤリングは若い女性向きで四十前の母妃には無理があった。チャーリーが出した商品をことごとくアデルに否定された母妃は、我慢の限界がきた。目がつり上がり、顔が真っ赤になっていく。噴火まで後数分といったところか。甘い香りがする香水をアデルがダメだと首を横に振ると、母妃はとうとう怒ってしまった。

「アデル! 先から何! 邪魔をするなら出て行きなさい!」

 母妃は立ち上がり、扉を指差す。

「お母様が賢明なお買い物をされるのなら、出て行きますわ」

 アデルは憤怒の母妃の顔を冷たく見上げながら、指三本を天に向けて立てた。これだけの予算なら許容の範囲だと。母妃は目をぱちぱちしながら考える。

「300万ゼーニーならいいってことかしら」

 母妃の出したこたえに、アデルは怒鳴った。

「一桁多い!」

 母娘の言い争いを楽しそうに見ていたチャーリーは姫様と呼びかけた。アデルはチャーリーの方を見ると、彼は春の日差しのような穏やかな笑みを浮かべていた。

「今から、姫様が気に入ってくださるものをお持ちいたしましょう」

 チャーリーは席を立つと、隣の部屋へと移動した。しばらくしてから、両腕一杯に薄青と鮮青色の小さな花を咲かせた勿忘草を抱えて現れた。彼の華やかな姿に目を奪われた。
 ゆっくりとアデルの前まで歩み寄ると、膝を折り、差し出した。

「どうぞ」

 柔らかな笑顔に思わず受け取ってしまった。可愛らしい五弁の花を見ていると、自然と笑顔になる。
 
「ありがとう」

 いくら相手が疑わしい人物であろうが、花に罪はない。アデルが勿忘草を愛でていると、「やっと笑って下さいましたね」とチャーリーは安堵したようにそっと微笑んだ。自分だけに向けるその微笑に、不信感を抱いていた頑なな心が自然とほぐれてしまいそうになる。
 そうなっては相手の思う壺だ。アデルは気を引き締めた。だが、再びチャーリーの顔を見る余裕はなかった。
 アデルの胸にはノエルとの思い出が鮮やかに蘇っていた。

 ――きっと、迎えに来てね。

 約束をしなくても、必ず来てくれるはずだ。だけど、いわずにはいられなかった。

 ――はい。必ず。

 ノエルは幼い少女の気持ちにこたえるように優しく微笑んだ。

 その微笑と今目の前にいる男の笑みが同じだった。顔がそっくりなのだから笑みは同じになって当然だ。当たり前だと理解しようとしても、心は受け付けない。アデルにはチャーリーがノエルにしか見えなくなっていた。十年後、シンシアの花が咲いた時、迎えに来るといったノエルが約束を果たしにやってきたのだ。

 もう限界だわ。これ以上、ここにはいられない。

「わたくし、失礼致します。花を花瓶に入れてあげないと」

 アデルは立ち上がると、この場から逃げ去った。勿忘草をぎゅっと抱きしめながら、早足で部屋へと戻る。主人がいない間に部屋の掃除をしていたマーニャが、突然戻ってきたアデルの姿を見て手を止めた。

「姫様! どうされたのですか!」

 おろおろするマーニャを見て、ようやくアデルは自分が泣いていることに気付いた。涙が溢れ、勿忘草を濡らしていた。

「いったい何者なの? あの男は」

 アデルは勿忘草を抱きしめながら咽び泣く。

 来て欲しいのはノエル王子。わたくしが待っている人はノエル王子ただ一人。
 似ている人なんて、いらない。

 ノエル王子みたいに、わたくしに笑いかけないで。わたくしの心をかき乱さないで。
 
作品名:千の夜 一の夢 作家名:加味恋