千の夜 一の夢
9.フルハの魔術師
アデルがスベニア国に入国してから二日経った午後、ボリス提督が港に到着したとの連絡が入った。
港に二艘の軍艦が、先に到着していた王族専用船を守るように停泊しているという。
ボリス提督は代々王族に遣える貴族で、父王と年が近く、信頼が厚い。父王が心から気を許しているのは彼以外にいない。
父王が出国したのは、ボリス提督が代わりに国を守ってくれているからだと思っていた。その彼をも呼び寄せた――国を守るよりも、秘法を手に入れる事が優先だということだ。
アデルは、出国する前から古の秘法を手に入れる計画だったのだと知ると、怒りがこみ上げてきた。アデルは肩を怒らせて、父王が滞在している部屋に行く。
扉の前には、顔なじみの兵士が立っていたが、アデルは彼らを無視してノックした。
「入りますわよ。お父様」
返事を待つ前に扉を開けた。
父王は窓辺に立ち、満足そうな笑みを浮かべながら、王宮の庭園を眺めていた。花が咲き誇る庭園に和んでいるのではない。父王は計画通りに事が進み、喜んでいるのだ。
つかつかと歩み寄ると、海よりも深い青い目がアデルを見た。アデルが何をいいに来たのかすでにわかっているのだろうが、あえて聞いてこない。
「チャーリーに会わせて」
アデルはチャーリーの名を強調していった。
ノエルといえば、死んだ王子など連れて来ていないといわれるに決まっている。
それに、背にあった秘法を失ったのだから、ノエルでいる必要もない。
父王は、チャーリーといった意味をわかったのだろう。微かに笑って、懐の中からコインを一枚差し出した。
「これは?」
「スベニア国王が認めた者に与えられる物だ。三階の兵士に見せれば、すぐに通してもらえるだろう。チャーリーは奥の部屋にいる」
アデルは繊細な文様が刻まれている金のコインを見詰めた。誰にでも簡単に作れるものではなく、スベニア王を意味するものを含まれていない。だからこそ、重要な物なのだ。この先、ウィンランドとスベニアは運命を共にするのだろう。アデルはコインを握り締めると足早に退室した。
三階の前に辿り着くと、見覚えのある兵士がいた。彼はアデルを見ても顔色一つ変えない。立派なものだと感心した。
アデルはつかつかと歩み寄り、コインを見せ付けると、彼はどうぞと道を開いた。こうすんなり通されると逆に不安になる。だが、気取られないよう、まっすぐに奥の部屋を目指した。
途中、カノンの部屋の前を通ったが、彼はもうここにはいないだろう。もし、城にいるのなら、カノンと会ったアデルをマルガレーテは許さないだろう。
カノンは巧みな話術で信じ込ませる自信があるから、アデルに会っていないとマルガレーテに嘘はいわない。
全てを話して、己が望むとおりに事を進める。油断ならない男だが、ふとした時に見せる愁いを帯びた表情に、女心が揺さぶられてしまう。
カノンは、自分の美しさがどれだけ人に影響を与えるのか熟知している。
十年間の亡命生活で、彼は美貌を武器に、多くの女性たちを味方につけてきたのだろう。
祖国奪回のため、弟の背にあった秘法を手に入れ、更に何を望むのか。
アデルには破滅への音しか聞こえてこない。
どうにかしないと。
気持ちが焦ってくる。頼るべき人は一人しかいない。アデルはその人がいる部屋の前に立ち、扉を叩いた。
がちゃりと音が鳴り、扉が開いた。顔を出したのは、ノエルの最後の護衛であるダリルだった。
彼は訪問者がアデルと知ると、強張っていた表情が少しだけ緩んだ。
「今朝方、ようやく熱が下がりました。今は眠っていらっしゃいます」
「そうなの。……会わせて貰えないかしら」
ダリルはどうぞと一礼し、アデルを眠っているノエルの元へと案内した。
ベッドの中で眠っているノエルとは数日前船上で会って以来だが、酷くやつれたように見える。
体温を無理矢理上昇させるために飲んだグァブの実のせいだろうか。
「大丈夫なの?」
アデルは側に控えているダリルに尋ねた。
「熱が下がればよくなります」
それは、熱が下がらなければ危険だということでもある。
解熱作用のあるファーヴの実を飲んでも、安全とは言い切れないのだろう。グァブの実の危険性を知っていていながら、ノエルは木の実を飲んだのだろうか。
いや、違う。たった一人の兄と列強の国々に睨まれた彼には、飲む以外に選択はなかったのだ。
ノエルとカノンが十年振りに再会したあの夜、アデルは壁越しに話を聞いていた。
はっきりとは聞こえなかったが、ノエルは秘法の譲渡を拒否した。彼にできたのは意思表示だけであった。
アデルは駆けつけて、共にカノンを説得したかった。だけど、できなかった。
古の巨人には、二つの国が絡んでいる。一つの国の王女が何をいっても、権力者である王の前では無力だ。国益を考えた彼らを説得するのは難しい。だが、アデルはまだあきらめてはいない。何か方法があるはずだと考えていると、ノエルが目を覚ました。灰色がかった碧い瞳が、アデルをぼんやりと見詰めた。彼はアデルだと確認すると微笑んだ。ゆっくりと起き上がろうとするノエルをアデルは寝ていてと止めた。しかし、彼は従わず、半身を起こした。
「王女様の前で寝ているわけにはいけません」
ノエルが古美術商のチャーリーとして振舞おうとする姿に、胸が締め付けられた。
「もう、いいのよ。あなたはノエル王子なのでしょう」
いいえとノエルはこたえた。
「ノエル王子は死んだのです」
自分を死者だといい続けるノエルに、アデルはやめてと首を横に振った。
「もうやめて。わたくしは何もわからない子どもではないわ」
アデルは零れ落ちそうになる涙を必死に堪え、ドレスをぎゅっと握り締めた。
「何を取引に使われたのかはわかるわ。わたくしのお父様のことですもの。お父様は時には非情になられる方だわ。古の巨人は手に渡ってしまった。けれども、まだ使われてはいない。使用される前にできることがあるはずよ」
アデルはノエルに必死に訴えた。だが、アデルの望みが叶う可能性が低いと知っているのだろう。ノエルは困ったように微笑んだ。
「スベニアの皇太子フランツは外遊中という名目だが、古の巨人を掘り出す作業をしている」
ノエルはウィンランドの王女と対等の口の利き方をした。
頑なに拒んでいた彼が、ようやく自分をノエル王子だと認めた。
初めて出会った頃の優しい瞳でアデルを見詰める。
「それって……」
「兄さんは既に古の巨人の位置を教えていたということだ。今更追いかけても無駄だ」
「無駄だって決め付けないで。間に合うかもしれないじゃない」
「君は、スベニアの次期国王を阻めるのか? 王女と皇太子では立場が違うのだよ。アデル」
ノエルは力を持たない王族であっただけに知っている。アデルもまた知っていた。王位継承者ではないだけで、淋しい思いをした幼い日の事を。
「僕らは見守るしかない。巨人が争いに使われないように願うしかない」
全てをあきらめ、疲れ果てたノエルの表情に、アデルは同情を禁じ得ない。だが、アデルは容易くあきらめることなどできない。