千の夜 一の夢
ノエルは窓辺に立ち、ぼんやりと輝く月を眺めていた。
月を見ていると、逃亡が始まった夜が鮮やかによみがえってくる。
死んでいったチャーリーや護衛たちを思い出すと、冷や汗が流れ出し、激しいめまいに襲われたノエルはその場にしゃがみこんだ。
荒い息を繰り返すノエルに、ダリルは駆けつけ、顔を覗き込んだ。
「ノエル様」
土気色の顔色に焦点が定まっていない瞳のノエルに、また過去に囚われているとダリルは思ったのだろう。
苦痛の表情を浮かべているダリルに、心配をかけないようノエルは振舞おうとしたが、上手く笑えなかった。
「……ダリル。大丈夫だ」
ノエルはそれだけいうのが精一杯だった。ダリルに肩を抱かれソファに倒れた。
ノエルは額の汗を手の甲で拭きながら、ダリルに呼びかけた。
「ダリル。お前は僕の護衛になって後悔したことはないか?」
過去を思い出すと、尋ねずにはいられなかった。立場上ダリルが決して後悔しているとはいえなくても、聞いてしまう。
「僕の判断が甘かったせいで、お前を残して皆死んでしまった」
「あの時、ノエル様はまだお若かったのですから」
若かった。
それだけで許されるはずがない。彼らの命を奪ってしまったのだ。
あんなところで死にたくはなかっただろう。長く生きたかっただろうに。
会いたかった人もいただろうに。
お前は間違った判断をしたとなじってほしい。
何故、お前が生きていて、彼らは死んでしまったのだと。
罵倒されたらどれだけ気が楽になるだろうか。
祖国の地を二度と踏めない身としては、その望みも叶うことはない。
――ノエル王子、行って下さい。私がここで足止めをしますから。
死を覚悟したチャーリーの表情を忘れることはできない。
何故、あんなに力強く笑えたのだろうか。迫り来る死を前に、自分ならあんな表情を浮かべることはできない。
「チャーリーは、今の僕を見てどう思うだろうな」
「生きてくださっていて、喜んでいると思います」
「お前は人がいいな。僕はもう王子ではないんだぞ? 守るべき民を守れなかった王族の一人だぞ?」
「ノエル様が生きてくださっている。それだけで護衛の役目は果たしているのです」
子どもの頃、初めて会った強面のダリルに少し怯えた。言葉数も少なく、チャーリーと一緒に遊んでいても、見張られているようでやりづらかった。
だが、遊んでいる二人を見詰める瞳が優しい色を帯びていたので、ノエルは怖い人じゃないと思い始めた。
ノエルに仕えて二十年経つダリルの髪には、白いものが混じり、シワも増えた。
ダリルがノエルに長く生きて欲しいと願うように、ノエルもまた彼に少しでも長い間生きて欲しいと思う。
苦難をしいた彼の人生に少しでも安らぎがくるようにと願うばかりだ。
コンコンと扉が叩かれた。
カノンがやってきたのだろうと思ったノエルは、ダリルに目で合図すると、彼は扉を開けに行った。
その人は常に中心にいて、一際強く輝いてた。
専門家と話しても一歩もひかず、対等に議論でき、専門家ですら考えつかなかったことを思いつく。
天才とは彼――カノンのことをさすのだろうとノエルは思った。
カノンとは比較されなかったが、間近で兄への賛辞ばかり聞いているノエルは居心地が悪かった。同じように教育を受けていたチャーリーに、「今、習っていることがわかるのか」と尋ねると、彼ははにかみ、半分もわかりませんとこたえた。カノンが熱心に教師に質問をしている中、ノエルはチャーリーの耳元で僕もわからないんだと告げると、二人顔をあわせてクスクスと笑った。
五歳年上で、大人たちに堂々と意見を述べて論じ合うカノンと、話があうはずもなかった。ノエルは自然とチャーリーと一緒になり、宮殿内の庭を駆け回っていた。王妃が大切に育てている庭を踏み荒らしてしまい、共に怒られた。一度怒り出すとなかなかおさまらない王妃の間に入ってくれたのはカノンだった。
困った時に手を差し伸べてくれたのは、いつも兄だった。
十年ぶりに会うカノンは、明るい金の髪を長く伸ばし、後ろで一つに束ねていた。紺色の上着を羽織り、ノエルと目が合うと、灰色がかった碧い瞳を細めた。
「久しぶりだな。ノエル」
「お久しぶりです。兄さん」
逃亡中を思い出し、呼吸困難を引き起こしていたノエルは立ち上がろうとしたが、カノンに手で制された。
カノンは顔色が酷く悪いノエルを気遣ったのだろう。カノンと共に現れた護衛六人は、ノエルの無事とたった一人残った仲間との再会に喜び、目は涙で濡れていた。
彼らもまた、年老いていた。
髪が真っ白になった者、かなり額が広くなってしまった者もいた。艶のないかさついた肌に深いシワとしみ。眉や立派にはやした髭も白くなっている。
ノエルは十年の歳月を改めて感じた。
ゆっくりと歩いてきたカノンは、ノエルの側に控えているダリルに視線を向けた。
「ダリル。よくノエルを守ってくれた」
「勤めを果たしたまででございます」
俯いたままこたえたダリルに微笑むと、カノンはノエルの正面にゆったりと腰を掛け、じっとノエルを見詰めた。
「お互い年をとったな」
「そうですね」
ノエルは返事をすると、カノンの仕草に注目した。
公の場で特定の者だけに意志を伝えるため、王族とほんのわずかな側近だけが意味のある仕草を知っている。
カノンはやや俯き、一度瞬きをしてから右足を組んだ。左手で耳たぶに軽く触れた。
―― 王たちが私たちの会話を聞いている。
予想はしていたが、あの二人の王が聞いているとなると慎重に事を運ばなくてはいけない。
ノエルは左親指を顎に乗せた。
それは、わかったという合図であった。
他愛無い話をしながらも、カノンは仕草で伝えてくる。
―― 婚約者も聞いている。
思わぬ情報に動揺しそうになったが、ノエルは顔色を変えず会話をあわせた。
アデルがどうして、この近くにいるんだ。
二国の王と共に聞いているとは考えられない。彼女のことだ。思い切った行動をとって、侵入したのだろう。
追い出されてはいないということは、特別扱いされているカノンの部屋へと何らかの手段をとって入ったのだろうか。
無茶なことをする子だ。
―― 彼女は無事なのか?
―― 妹君になっていたかもしれない娘だ。丁重にもてなしている。
ノエルにはカノンの言葉をそのまま信じることはできなかった。
カノンは自分に好意を持つ者さえも利用するところがある。スベニア国のマルガレーテ王女は彼に夢中になっていると聞く。一途に想いを募らせる彼女はカノンのためなら何だってするだろう。亡命しているといえ、十年間、何も手をうたずに過ごしていたとは到底考えられない。強かに、時が熟するのを待っていたはずだ。ノエルが知る限り、兄はそういう男だ。
カノンは深い息をついた。本題に入るとの合図だった。カノンの灰色がかった碧い瞳が静かに燃え上がった。
「ノエル、私は故郷に帰りたい。一刻でも早く戻り、混乱する国を救いたいのだ」
「僕らは国を守れなかったんだ。戻ったところで歓迎はされない」