千の夜 一の夢
8.亡国の王子
確か、あの方はウィンランド王国の王女だ。
近衛兵は、天井を観ながら階段を上ってくるアデルを見ていた。
夜の帳が下り、宮殿内とはいえども、女性が一人で歩くのは好ましくない。
それに、もしも、彼女に何か起これば、東の海を支配するウィンランド王国との間に歪がはいる。
近衛兵は最上階まで上がってきたアデルに告げた。
「ここから先は立ち入り禁止です」
アデルはとても驚き、ついついこんなところまできてしまった自分を恥じているようだ。
「まぁ、すみません。素晴らしい天井画についついひきつけられて、もっともっと近くで観たいと思っていたら、こんなところまで来てしまいましたわ」
「お部屋までご案内致します」
近衛兵はもう一人をここに残し、自分はアデルを連れて行こうとした。しかし、好奇心旺盛な姫君はそうそう簡単には引き下がらない。
「わたくし、国へ帰ったら、初めての外国で見聞きしたことを書物に書くの。だから、もっと詳しく宮中内を見せてくださらないかしら」
年頃の女の子にねだられると、ついつい甘くなってしまうが、公的と私的の分別がつかない男ではなかった。
「許可なくてはここへ立ち入れません。お帰り下さい」
「ほんの少しの間でいいから、お願い」
アデルが可愛らしく頼んだ時、くっきりとした胸の谷間が目に入って、目のやりどころに困った。
「ウィンランドの王女様といえども、ここは通せません。お引きかえし下さい」
毅然と告げたところ、階下から若い女性の悲鳴が聞こえてきた。
何だと階段下を覗き込むと、少女が階段から落ちて倒れていた。
「まぁ、大変だわ! 早く、助けてあげて!」
二人の近衛兵はすぐさま転げ落ちた娘のところへと向かうが、二人とも行く必要はないと思い、振り返ると、そこにいたはずのウィンランド王国の王女の姿はなかった。
や、やられた!
近衛兵は失態に青ざめたが、急いで三階にある全ての部屋を一つずつ確かめることにした。
決して誰も入れてはいけないと命ぜられている部屋に入っていないことを祈りながら……。
危ないところだったわ。
アデルはふぅっと息をついた。兵士たちが離れている間、急いで目に付いた扉を開いたが、幸運なことに鍵は閉まってなかった。もし、ここが閉まっていたら、兵士に捕まり、強制的に部屋に連れ戻されていたことだろう。
エリートの近衛兵は違うわね。
アデルは思わず感心してしまう。マーニャに手伝ってもらい、体のいたるところから胸に向かって、寄せてあげて、くっきりとした胸の谷間をつくった。兵士の視界に入るように動いたのだが、彼は動じなかった。
大抵の男ならいちころって聞いたが、まだ少しボリュームが足らなかったのか。それとも、色気が足りなかったのか。
お色気作戦が失敗した場合、マーニャが階段から転んで注意をひきつける。その間に、アデルがカノンがいると思われる三階のどこかの部屋に侵入する作戦は成功した。
一つ一つ確かめる時間はなく、とりあえず選んだ部屋は開いていたが、ここにカノンあるいはノエルがいてくれたらいいのだがと考えていると、若い男の声が聞こえてきた。
「誰だい?」
アデルは間違って入ってしまったと演技しようとしたが、ランプを片手に持って近づいてきた男を見ると、それどころではなくなった。
ノエルとよく似ていた。この男がノエルの兄のカノンであろう。
ノエルよりも男らしい顔立ちに、長く伸ばした明るめの金色の髪を後ろで一つに結ぶ。
ゆったりとした白いシャツの上からでもわかる、がっちりとした逞しい体つきに、長い亡命生活を送っている人とは感じ取れなかった。
「君は、ウィンランド王女のアデル姫様かな?」
訪問者を責めることはなく、面白そうにアデルを見下ろした。
「よく、ご存知で」
「兵士の制止を振り切れる可能性がある人は、限られてくるからね」
それに、とカノンは付け足す。
「世が世なら、私の妹君だ」
もし、イニス王国でクーデターが起こらなければ、この人はアデルの義兄になっていたのだ。アデルは叶わなかった夢を思い出して、胸が痛んだ。
今頃、わたくしは、ノエル王子と結婚していたはず……。
沈み始めたアデルを見たカノンが話しかけようとしたとき、扉が叩かれた。
きっと、先ほどの兵士だろう。どうしようかと考える前に、カノンが優しげに笑いかけた。
「君はベッドに入っていなさい」
「な、なんですって」
カノンがいったい何を考えているのか見当がつかない。
わたくしが、誘いに来たとでも思っているの!
考えるだけで、恥ずかしいやら、腹立たしいやらで、アデルは頭が一杯になった。彼女の慌てぶりを見たカノンは小さく笑った。
「いいから。それが一番いい」
何か策があるのだろうと思うことにしたアデルは、素直に天蓋を開いてベッドの中に入った。
アデルはドキドキしながら、カノンと追いかけてきた兵士の話を聞いていた。
「カノン様。こちらに若い女性が来られませんでしたか?」
「あぁ、来たよ」
カノンはあっさりとばらした。
ちょっと。何、ばらすのよ!
アデルは心地よい掛け布団をギリギリと握り締めた。部屋の中を覗こうとした兵士にカノンは告げた。
「私の可愛い人に恥をかかせるつもりかい?」
「しかし……」
仕事に忠実な兵士は困っているようだ。
「誰も君を責めたりはしないさ」
亡命し、もう皇太子ではないとはいえども、カノンは王家の風格を失っていなかった。権力者だけが持つ威圧感に怯んだ兵士は観念したようだ。失礼しましたと告げて、立ち去っていった。
一難去ったとアデルは息をつくと、ローテーブルにランプを置いたカノンが天蓋を開けて、ベッドの上に腰掛けた。間近に座られ、自信のある表情で見詰められると、アデルの胸は高鳴っていく。
少し離れようと動き出す前に、カノンに腕をとられた。温かく力強い手に、ドキリとした。
「目的は何だ? 私に会いに来たのか、それとも、ノエルに会いに来たのか」
一瞬の隙をも見逃さない鋭い目つきに、アデルは怯むことはなく立ち向かう。
「カノン王子に会いに来たのよ。ノエル王子の背にある古の秘法を、渡さないように説得してもらう為に」
カノンはアデルがそこまで知っていたとは思っていなかったようだ。少し目を見開くと、くすくすと喉の奥で笑った。その笑い方は、チャーリーとして現れたノエルと同じだった。きっと、ノエルはチャーリーとして生きていくために、兄であるカノンを真似たのだろう。儚げなノエルは、この先生きていくうえで、力強いカノンのようにならなくてはいけないと思ったのだろうか。
「ノエルはそこまで話したか。だが、それは無理だ。古の秘法はすでにイニスのものではなく、スベニアとウィンランドのものだ」
「そうかしら。まだ背にある者の物じゃないかしら」
アデルがこたえると、カノンは面白そうに笑った。
「私の背にもまだあると思っているのか? 私の背にあった秘法は水晶に移し、スベニアに渡した」
「そんなことができるの?」
「できるように教育を受けてきたからね」