千の夜 一の夢
船は押し寄せてくる波をもろともせず大海原を悠然と進む。海面が太陽の光を反射し、キラキラと輝いていた。
マーニャーは船酔いしたらしい。部屋で横になっている。申し訳ございませんと何度も謝られた。
甲板にでたら、気持ちいいのに。
アデルはどこまでも広い青い空を眺めた。上空には白い海鳥が舞っている。
帰国後、まだはっきりといわれていないが、わたくしはお父様が決めた男性と結婚する。
結婚という言葉から思い浮かぶのは、元婚約者のノエルだった。
ノエルは生きていた。それを知られてはいけないならば、彼は死んだと受け入れるしかない。
ノエルは死んだ。もう、どこにもいない。
彼に似た人はいるけれども、あの人はチャーリーだ。
あの夜、あきらめが悪い娘のために、神様がノエルを遣わしてくれたのだ。
約束していた日に現れてくれた。それだけでもう充分じゃないか。
アデルは視線を落とし、海を眺める。深い海を見ていると吸い込まれそうになった。
「そんなに覗き込んだら、海に落ちてしまいますよ」
思いがけない声に驚き、アデルは振り返った。
「……チャーリー」
チャーリーはあの夜にだけ見せたノエルの優しい笑みではなく、左の口元だけ吊り上げて笑った。
約束の日の続きをもう一度とアデルは望んだが、彼は頭のてっぺんから足のつま先まで、チャーリーになっていた。
取り残されているのは自分一人だけだとアデルは思い知った。
どんなに想いを募らせても、叶うことはない恋をしている。彼は決して生き方を変えない。
長い沈黙に耐えられなかったアデルは話しかけた。
「スベニア国には訪れたことはあるの?」
「いいえ。初めてです。心躍ります」
チャーリーは目を細めて海の向こうを見詰めた。海風に巻き上がった淡い金色の髪が頬を優しくなでている。
アデルは彼の美しい横顔に見入ってしまった。
初めてノエルと出会った時、彼の金髪と見比べて、自分の赤茶けたひどいくせ毛の髪を恥ずかしいと思った。
彼には傾き崩れ落ちていく祖国の音が聞こえていたのだろうか。どんな想いで海を越えてきたのだろうか。
わたくしは、何も知らなかった。
未来の夫がやってくるのを心待ちにしていた幼い少女だった。
彼の美貌に心奪われ、何も知ろうとは思わなかった。ただ、側にいたかった。いて欲しかった。
淡い金髪に灰色がかった碧い瞳の美しい青年――わたくしの婚約者、ノエルはそこにいる。
イニス王国でクーデターが起こらなければ、わたくしは彼の妻として、共にいるのだろうか。
何を話しているのだろうか。彼は何を話してくれるのだろうか。わたくしは誇らしげに彼を見詰めているのだろうか。
決して叶わないことを次々と想像してしまう。
「チャーリー。あなたは何をしに行くのかわかっているのでしょう」
「ええ、存知ています。私の商売がうまくいけばいいのですが」
「そんなことじゃないでしょう」
はぐらかすチャーリーにアデルは強く迫ろうとしたが、チャーリーの目配せに思いとどまった。
そうだ。船の上には多くの人がいる。感傷に身を任せて、思わぬ失態をするところだった。
彼の背にある古の巨人を示すものを引き渡せば、彼はチャーリーになってしまう。
ノエル王子が守りたかったものを守りたいと父王に告げたが、本当はチャーリーになってもらいたくなくて、止めようとしているだけなのかもしれない。
アデルは本当に自分が望んでいるものは何なのか、わからなくなってきた。
「私は一商人ですから、異を唱える権利などございません」
それは、アデルには流れに抗うことはできないといっているように聞こえた。
チャーリーがノエルに戻れないのなら、せめてノエルが守りたかったものを守りたい。
古の秘法の一つは彼の背にある。いかにして、秘法を守れるだろうか。
王女と古美術商の男では身分が違いすぎ、共に行動をしていたら怪しまれる。
良き案が浮かばないまま、東の海にスベニア国が見えてきた。
この国で運命が決まる。
わたくしだけじゃない。
この大陸に住む人々の運命も、大きく変わるかもしれない。
わたくし、一人でできるのかしら。
アデルは考えると、重責に押しつぶされそうになる。
いいえ、やるしかない。わたくしがしなければ、誰がするの?
きっと、何かあるはず。まだ、時間はあるわ。
アデルは気合を入れ、スベニア国の港をにらみつけた。